昨日の夕方、町内のご門徒さんのお宅へうかがいました。「新しい納骨堂について説明してほしい」と、数日前に電話をいただいていたのです。ご高齢で、体調に不安を抱えながらお一人で暮らされている方です。
「いつもお寺からのお便りを読ませてもらっています。体がこんなだから、お参りできなくて残念でなりません」
すでに90歳を超えておられます。「施設には行きたくなくてね。ここで最期まで暮らしたいと頑張っているんです。近所の人たちがよく助けに来てくれますし、以前お世話になった施設の職員さんも、2週間に1回は様子を見に寄ってくれます。本当にありがたいことです」
枕元には、非常時に押すボタンがありました。
不自由な身体をおして、私をもてなしてくださいました。
和菓子屋さんから取り寄せたという水菓子と、好んで飲まれている缶コーヒー(宮崎から送ってもらっているそうです)をご馳走になりました。
「納骨堂の話が聞けて安心しました。これからも頑張って生きていこうと思いますが、そのときは、私もどうぞよろしくお願いします」
ああ、もっとご門徒さんのところへ足を運び、お話をうかがわなければならない――そう痛感するひとときでした。
こちらから出向いて耳を傾けるからこそ、聞こえてくる真実があります。
それこそが「聴聞」というものなのだろうと、私は思うのです。