お盆参りは中止とします

鳥取県東部に新型コロナ警報が発令されたことを受け、この夏のお盆参りは中止に、16日の本堂での法要は寺族を中心にしたお勤めにすることとなりました。

朝から鳥取市内のご門徒さんあての案内をつくり郵送作業をいま終えたところです。

全国的に、そして鳥取県でも感染が広がっています。

東京の医師会は都内1400箇所に検査を拡大して、感染震源地(エビセンター)を明らかにするとしています。現状は、検査を受けていない無症状の感染者がまわりに感染を拡大している状況のようです。

人口100万人あたりのPCR検査実施数で日本は215の国・地域中で158位ということですから、感染拡大が十分つかめないままに事態は悪化しているということのようです。

子どもたちは今年夏休みが短くなっています。国会は今開かれず安倍首相は夏休みの状況です。

鳥取の平井知事は昨日、夜11時から記者会見し、県・鳥取市の担当職員の方々も会見で説明責任を果たしていました。こんな夜中でなくてもいいのではないか、身体は大丈夫かなと心配にもなります。

ですが、いま行政も医療機関も、感染拡大を防ごう、いのちを救おうと全力です。そのために行政や医療機関はあるのだなと私なども見ていてハッとさせられるのです。

東京の医師会長さんは、国会を開いてほしいと声をあげていました。こんなことが言われること事態、嘆かわしいことであると思います。首相には、この苦難のなかで8月を迎える人たち、この事態に立ち向かっていのちを救おうと全力を傾けている方たちに、心を寄せて欲しいと切に願います。

国会を開いて、政府の責任を、どうか果たしてください。与野党、ここは力を合わせて苦難に立ち向かっている方たちが励まされる施策を講じてください。

自業自得のワナ

鳥取県東部で、新型コロナウイルス感染症の広がりが見られます。感染された方に対して、「自業自得だ」との批判がインターネット上に見られます。悲しいことです。

もともと、「自業自得」は『正法念処経』(しょうぼうねんじょうぎょう)というお経の中にある言葉です。

「業」とは行為のことです。自分の行為に対しての結果を、自分自身が受けるというのが「自業自得」の意味でしょう。

私自身は、この言葉は決して安易に使ってはならないと考えています。

浄土真宗本願寺派は、「業」についてどのような註釈を行っているのか、改めて確認してみました。
「江戸時代の説教などでは、現在の貴賤、貧富や、心身の障害も、すべてその人の過去世の業の報いであると教えた」
「政治的に作り上げられた封建的な身分差別までも、すべて個人の業報であると説くことによって、社会的身分制度を正当化するような役割を果たしてきた」

「現実の矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであり、それによってもたらされた不幸を、被害者である本人の責任に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらさせてしまうような業論が説かれるならば、それは誤りである」

ーー引用は、『浄土真宗聖典』1560ページより

極めて率直な記述です。また、私自身、踏まえなければならない立場であると再認識しました。

そんなことを思いつつニュースを見ていると、こんな話題が。

香港の民主化運動のリーダーの一人で香港大学准教授の戴耀廷(たい・ようてい)氏が同大学から解雇をされたそうです。それに対し、中国政府の香港出先機関「中国駐香港連絡弁公室」は、「完全に自業自得だ」と談話を発表しています。

真の原因は、たい氏にあるのではなく、「一国二制度」という世界への公約をなきものにしている中国政府にあります。

石原慎太郎氏は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のことを業病とツイッターで記したことをニュースで知りました。このような表現を使えるところに、氏の心の荒廃を見る思いです。

「自業自得」を私たち自身が戒めの言葉として自らに向けて使うならともかく、人を責めたてる言葉として使われる時、注意が必要です。そこに、この言葉のワナがあると思います。

思わぬ事態に

裏山からキリの木が倒れてお墓を覆うような格好に!

先日、剪定をお願いした業者さんがすぐ来てくれ、

あっという間に解体作業は終了。ホッとしました。

キリの高さは10メートルほどでしょうか。小さな樹木では決してないので、廃材の山となってしまいました。

私は長雨による倒木かと思いましたが、それだけでなく、近くには猪があけたと思われる穴が。業者さんによると、「猪が掘り返し、そこに長雨が続いて倒れたのでは」とのこと。

お寺の裏山は傾斜がきつく、このところの異常気象で山崩れがいつか起こるのではないかと心配になります。町役場にも、一度調査をしてもらえないかと先ほどお願いに行きました。それがどうなるにせよ、お寺として対策を講じなければならない時期に来ていると思います。

と、ちょっと疲れたところに、裏山からひぐらしの大合唱。いろいろなことが起こりますが、自然に翻弄されたり、癒されたりしながら暮らしているんだなあと気づくのでした。

ひまわりの生命力

地上数十センチの高さでひまわりが咲きました。

左のひまわりと同じジャイアントヒマワリです。実はこのひまわり、先日のイノシシ来襲の際に、茎が折れてしまったのです。

当然、花の部分も地面に落ちてしまいました。

にもかかわらず、新たな支えをみずから作り、花を持ち上げて、

見事に咲かせたのでした!

ひまわりの生命力、たいしたものです。

東京の方からの電話

久しぶりに東京の人と話しました。東京時代の知り合いの方から問い合わせの電話だったのです。用件はすぐ済んだのですが、東京の様子を少し教えてもらいました。

4月から5月にかけてはリモートワークで、ほぼ在宅。6月からは出勤するようになったとのことでした。

このところの感染拡大をうけても勤務形態には今のところ大きな変化がないそうです。「東京には当面こない方がいいよ」とも。

世界的な感染症はコロナに限らず今後も発生すると思われます。新しい生活様式とともに、より考えなければならないのは、首都圏への一極集中、働き方をはじめ、政治・経済・社会のあり方なのではと思います。

「われわれの社会には、より広い問題がある。効率を高める終わりない探求において、われわれは限界、極限のところで生きている」(2001年のノーベル経済学賞受賞者ジョセフ・E・スティグリッツ氏・『TIME』3月27日号)

きょうは集いでした

浄土真宗本願寺派には全国に組(そ)とよばれる地域ごとの集まりがあります。鳥取県東部は因幡組です。1年のあいだ毎月1回行われる連続研修会という場があります(ことしは残念ながら中止となりました)。きょうは西法寺のご門徒さんで、過去に受講した方に集まっていただいて「つどい」を開きました。はじめての試みです。

私から「念仏者の生き方について」お話ししました。2016年に本願寺の門主となった大谷光淳さんが、継職にあたって話されたのが「念仏者の生き方」です。私自身、そのころは僧侶になるとは思ってもいませんでした。2017年の春、中央仏教学院に入学するにあたってホームページで読み、共感するところ大で、その後もたびたび読み返しています。リンクをクリックすると映像でご覧になれます。

https://youtu.be/nBPxORHoKyg

ついで総代の方から西法寺の歴史について話していただきました。シイラ漁のために石見国(現在の島根県。真宗のさかんな地域)のほうから漁の期間きていた方たちのなかから定住した家族があり、漁村ができていったこと、因幡国(現在の鳥取県東部)で城主もつとめていた山名家のなかから出家者がでて、お寺をつくっていったと考えられることなど、地域とお寺の成り立ちについて短い時間でしたが、整理して話していただきました。400年をこえ、今日まで地域とお寺をささえつづけてくださったお一人おひとりに、改めて感謝の思いをいだくひとときでした。

厳しい別れを体験するなかで、また、念仏のなかに生きたご家族の姿に導かれと、お一人おひとりがお寺と関わるきっかけを話されました。貴重なお話しでした。

お昼で終わりとしたので、みなさんにお弁当を持ち帰っていただきました。岩井のおぐらやさんのお弁当、ありがたくいただきました。

「来て良かった」「また開催してほしい」とみなさんにいっていただいたので、時期をみて第2回目を計画したいと思います。田後からご参加の方からは「地域でも話してほしい」との要望もいただきました。ありがたいことです。そのときはよろしくお願いします。

お医者さんからのアドバイス

きょうは午前中に2件の法事がありました。鳥取市内で医師として働いている方から、「お経の本は不特定多数の人がさわるので、消毒液を置いた方がいいですよ」いいとのアドバイスを頂きました。玄関には置いていますが、たしかにその通りです。本堂にも置くように改善したいと思います。「自分用の消毒液を携帯していますよ」とも。これもマネします! 

ご門徒のみなさんは実にさまざまな分野で社会を支える仕事に携わっておられます。

医師、看護師、教員、研究者、漁師、公務員、介護、農業、農協、製造業、運送、建築、商店経営、和菓子職人、銀行員、郵便局員、飲食店、果樹園、美容院、リラクゼーション…あの人は、と顔を思いうかべながらあげてみると、こんなにも。多彩な趣味・特技をお持ちの方もいらっしゃいます。

法事だけのお付き合いではなく、それぞれの方の得意分野を生かしていただく形でのお寺づくりをめざしたいと考えています。時期を見ながらですが、ぜひ実現していきたいと思います。

「安楽死」のニュースにふれて

連休初日の「安楽死」のニュース。治る見込みのない難病のなかで、死をのぞみ、それを可能とする医師が薬物を投与し、殺害したという事件です。

安楽死を認めることは、死を私物化する、自己の命をコントロールする「死ぬ権利」を認めるということになるでしょう。事件を受けて、安楽死や尊厳死を認めよという意見がインターネット上では散見されます。

私たちが法事などでお経を読む際、最後に回向句という短い偈文を読みます。

最後は、「往生安楽国」

安楽国とはお浄土のこと。往生とは生まれ往くことです。

お浄土というのは、生きとし生けるものが光り輝く世界です。現実に生きる私たちは、お互いを光り輝く存在として尊重することが極めて難しい中を生きています。そのことを自覚しつつ、お浄土という理想を目指して、私にできる勤めを精一杯、この世で果たしていこう。その果てに、お浄土にお参りさせていただこう。

「往生安楽国」には、そのような意味が込められていると思います。

自分がもう役に立たなくなったから死を選びたい、という気持ちは大変なことであると思います。その方を眼の前にした時、自分はどのようなことができるのだろうかと想像してみても、率直に言って浮かんできません。

ですが、薬を投与して、命を奪うということは、果たして本当に痛みを和らげることなのでしょうか。

苦しみ悩む人のそばに寄り添って話を聞き、生きていける環境を作り、その人が生を全うできる条件を整えていくことの必要性を、この事件は示しているのではないでしょうか。

肉体的な痛みを100%取り除くことも、精神的な苦痛を100%取り除くこともできないのでしょう。それでも、支え、支えられるなかから人は学ぶことがたくさんあるのではないでしょうか。

仏教徒の端くれとして二つほど、思うことがあります。

一つ。「人は人を殺してはならない」。このブッダの教えに対して、「いや、そうは言ってもこういう場合は」と例外規定を設けることをよしとするのか。

二つ。安楽国をめざし、この世が少しでも安楽となるように、私たちは努力すべきではないのか。

ブッダのお弟子さん

龍谷ミュージアムでの展示をまとめた『ブッダのお弟子さん』を読んでいます。

展示は8月半ばまでインターネットで見ることができます。https://museum.ryukoku.ac.jp/exhibition/2020/odeshisan/movie.html

ブッダには十人の直々のお弟子さんがいた、ということはご存知の方もいらっしゃるでしょう。その根拠はどこにあるのか、初めて知りました、

本のなかに、小さな本が閉じられているのですが、

『維摩経』というお経の一節です。10人の弟子に釈尊は病床にある維摩のところへお見舞いにいくよう勧めます。この10人が十大弟子と呼ばれるようになったそうです。

『維摩経』では、弟子たちが弁才にたけた維摩のお見舞いに行きたがらず、釈尊は文殊菩薩をつかわします。三人寄れば文殊の知恵の文殊菩薩です。

文殊菩薩は維摩に病気の原因を尋ねます。

維摩は、

「以一切衆生病是故我病」〜生きとし生けるものが皆病むゆえに、私も病む、と答えます。

一人の苦しみも、私は見過ごすことができない。

ほんと、シビれるひとことです。

本は、上のホームページから注文することができます。

4連休前ですが

首都圏や関西圏での新型コロナウイルスの感染拡大が心配です。市中感染の広がりといった状況ではないでしょうか。

お寺の4連休ですが、2日間は法事、日曜は研修会。予定がないのは明日のみです。

日曜の研修会では30分の時間をいただいて、「『念仏者の生き方』について」というテーマでお話しする予定です。

きょうは車の定期点検日でしたが、車を出しに行って受け取りに行くまで、本を読んで準備にあてました。

研修会ですが、もともと浄土真宗には僧侶とご門徒さんのあいだに上下関係がありません。親鸞聖人は念仏の人々を御同行・御同朋」と敬っておられました。歳や境遇は違っても、みな親友です。友だちに話しかけるように、語り合うように、お一人おひとりと楽しい時間を共有できればと思っています。