朝、本堂でお経を読んでいると、外でウグイスが鳴いていました。
ホーホケキョ ホーホケキョ 見事な鳴き声です。
蓮如上人は、ウグイスの鳴き声を「法を聞けよ」と鳴いているとうけとられ、人に生まれた私たちが仏法を聞かなかったら嘆かわしい、とおっしゃったとか。
3月も今日で終わりです。法を聞けよ、法を聞けよとのウグイスの鳴き声を聞きながら経を読みました。


朝、本堂でお経を読んでいると、外でウグイスが鳴いていました。
ホーホケキョ ホーホケキョ 見事な鳴き声です。
蓮如上人は、ウグイスの鳴き声を「法を聞けよ」と鳴いているとうけとられ、人に生まれた私たちが仏法を聞かなかったら嘆かわしい、とおっしゃったとか。
3月も今日で終わりです。法を聞けよ、法を聞けよとのウグイスの鳴き声を聞きながら経を読みました。
志村けんさんが亡くなりました。
「8時だよ全員集合」を子どものころ見ていた世代です。
好きだったのはヒゲダンス。とにかくおかしかった。
本当に厳しい現実です。
「おほよそはかなきことはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」
「人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば」
蓮如上人の書いたお手紙の一節が頭をよぎりました。
心よりお悔やみ申し上げます。
新型コロナウイルスをはじめとした世界的感染症、巨大地震、環境破壊にも起因すると考えられる自然災害の広がりなどからいかにしていのちを守るのか、本当に問われていると思います。
昨日は四十九日のお勤めのあと納骨でした。全てが終わり施主さんから、「お世話になりました。母も喜んでいると思います」とのことばをいただき、少しは役に立てたかなとホッとしました。
お墓からかえって別の法事をお勤めしたあと、「お墓のことなんですが」と相談がありました。
「実家のお墓は急峻なところにあり、上がるのがたいへんになってきました。親と同居している子どもはおらず、遠くない将来にお墓の世話をする人がいなくなってしまう。草ぼうぼうにしてしまうのも申し訳ない。西法寺さんには納骨堂はありますか?」
といったお話でした。「納骨堂はあります」とお答えし、利用料の目安、遺骨の管理の仕方など説明しました。
ずいぶん安心されたようでした。納骨堂はこれからますます必要となっていくでしょう。大事な問題なので役員さんとも相談して、納骨堂のしおりのようなものを整備していきたいと思います。
坊守です。
きのう、西法寺の桜の開花宣言の日記を読み、桜を詠んだ昔の歌を反芻(すう)していました。ホントに沢山ありますよね。
10代のころは、
【願わくば 花の下にて春死なん…】
という、西行法師のサクラの歌が、切なく響いて好きでしたが、
最近は【世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし】(この世に桜なんてなければ、咲いただの、散っただの心揺らすことなく、春をおだやかに過ごせたろうに)という超有名な歌(伊勢物語)に対して詠まれた、
【散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき】(桜は散るからこそますます素晴らしいのです。この憂き世に、永遠につづくモノなどないのですから)
という歌が好みです。
有限だからこそ、愛おしい…ちょっと仏教テイストを感じませんか?
それはどうあれ、
あっという間に2020年の4分の1が終わるとは、唖然、呆然。ここにもはかない現実が。夕方近くなって仕事から帰ると、裏庭の乙女椿(オトメツバキ)が咲いていることに気づきました。なんのお世話もしていないのに、花は去年よりたくさん!
ワサッと枝ごと切って、住職の部屋に活けました。
ナモさんも食らいついてきました。さいきん、花を活けるときはだいたいやってきて、お花をチェックします。
3日前に桜の開花が近づいてきたとブログで書きましたが、本日、満開となりました。この2日間、あたたかったこともあって一気にです。
ただし今日は雨模様です。法事でお話しすることの準備もあって、読書したり、久しぶりに習字の練習をしたりしながら過ごしています。雨季にこもって修行したり学んだりすることを仏教では安居(あんご)といいます。雨季ではありませんが、1日安居といったところです。
中村元さん訳の『ブッダ 真理のことば 感興のことば』を読んでいると、ブッダが「花にちなんで」と教えを述べているくだりがありました。
「うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある」
「花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラ(香のこと)の花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る」
実にわかりやすいたとえだなあと感心するばかり。
ブッダは、対機説法といって、相手に寄り添って、相手にわかる言葉を使って教えを説かれています。この話をされた時も、花のそばだったのかもしれませんね。
イタリアで人工呼吸器を自分より若い方に譲って、自らは亡くなった神父さんがいます。その死を知ったアメリカの神父さんが、新約聖書のヨハネによる福音書から、「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」を引いて追悼のツイートをされたことがニュースになっていました。
「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」。記憶しておきたい言葉です。
「愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、それゆえに来世には幸せとなる」
これはブッダのことばです。
東京で新型コロナウイルスの感染が拡大し、店買い占めが起こっているとか。密閉空間、密閉場所、密接場面の3つの密を避けて感染拡大を抑えようとしているときですから、スーパーにお客さんが殺到するのはどうなのでしょうか。
神父さんのようなことは容易にできるようなことではありません。ですが、他者を思い、分かちあうことの大切さをあらためて神父さんから教えていただいたように思います。
本願寺が発行している「宗報」3月号に、「戦後75年」の今年、戦争・平和問題への取り組みを推し進めるための「宗門寺院と戦争・平和問題」調査を開始するとありました。
対象は全教区全寺院です。全寺院宛に調査票が送られてくるそうです。「宗門にはこれまでになく、はじめての取り組み」「他教団においても全く例がないもの」「平和構築のためには、今取り組むべき重要課題」とありました。
こうした調査を教団として行うことは大変重要なことであると思います。戦争で西法寺の梵鐘は供出されました。当時の住職は文書にその経過を書き遺しています。戦死されたご門徒さんも少なくありません。
きちんと回答できるようにしたいと思います。
お寺の桜の開花も近づいてきました。先週、台風のような風が吹いて心配だったので一安心です。花より団子の私のような人でも桜の開花がうれしいのは、心落ち着かない3月をすごしているからなのかもしれません。
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
親鸞聖人は9歳の時、仏門に入る決意をされました。夜も遅いので、得度(僧侶になること)明日にしましょうとのすすめに親鸞聖人は、「明日まで待てない」という気持ちを詠んだのがこの和歌であったと伝わっています。
今咲いている桜も、夜中に嵐が吹いたら散ってしまうかもしれない、だから明日ではなくいま仏門に入りたい。
本当に詠まれたのかどうかは定かではありませんが、真剣な気持ちであっただろうと思います。
今日できることを精一杯というのはなかなか簡単ではないし、追い詰めるようなことになってはもちろんいけません。ただ、当然のようにあすはあるわけではないということは胸に落として、だからこそありがたい、ありがとうという気持ちで日々を過ごすことは大切ではないかと思います。
職場の臨時学童保育所がきょうで終了しました。
本来業務をぬってピンポイント先生をした我々には「お楽しみ会」の招待が来たので、会議の合間にちょっと顔を出しました。
二重跳びを披露する3年生がいたと思えば、ピアニカを演奏する2年生がいたり、フラフープを上手に回したり、ブンブンゴマをまわしてみせてくれる1年生たちがおりました。初日は誰ともお話できず、ひとりで塗り絵をしていた2年生も、ピアニカ演奏をし、元気な声で曲紹介ができました。
3週間であずかった児童は、実数で30人くらい。明日からこの場が本来の会議室に戻り、ドアをガチャリとあけても、真面目な顔した大人しか居ないという現実が残念になりました。笑
突然のいっせい休校のために、行き場がなくなったスタッフの子どもたちを預かる判断を瞬時に行った法人や事業所の思いきりのよさに拍手をおくりつつ、ああいえばこう言い、時には大暴れするギャングたちをみてくださった臨時の先生たちに感謝です。
わたし自身は、大学時代に学んだことや、関わった子ども会活動、編集者時代に思いつきで取得した保育士免許がこんな背景のために、こんなカタチで役立つ日がくるとは思いませんでした。
しかしとにかく、センセ、センセと、子どもたちにひっぱりまわされる時間は、仕事抜きに楽しかったのです。
それにしても、新型コロナの問題がなるべく小さく、なるべく短期間で、片付いてほしい。世界中の医療従事者と行政担当者、患者さんに心からのエールを。
今日も法事が3件ありました。新型コロナウイルスの影響がさまざま現れていることを痛感。建設業の方からは中国からの部品が入らず仕事に支障が生まれているとの話が、飲食業を営む方からは外国人観光客、国内旅行者が減り収入が落ち込んでいるとの話が聞かれました。法事に来られるのも家族だけにされる方が増えています。法事は親族が久しぶりに会う機会でもありますが、そうもいかない事態となっています。それでも法事をしようと思われる方が多いということは、先祖をしのぶという時間を大切に思ってのことです。お寺としては不安なくお参りいただけるようにつとめるのみです。