山門のメンテナンス

お寺の山門が、赤いカビで汚れが目立つようになりました。先日の役員会でも汚れを落とすことを報告したのですが、きょうから大工さんに作業していただいています。

無害の自然素材で汚れを落としていかれます。赤いカビが落ちるとずいぶんキレイになることでしょう。

木の部分も10数年の風雪に耐えて当初の色からはだいぶ変わって黒っぽくなっています。これも一度、汚れを落としていただいています。塗り直しているのではありません。数年間するとまた木の色は徐々に変わっていくそうですから、生きているってことなんでしょうね。

赤ちゃんもお参りでした

今日は生後4ヶ月の赤ちゃんもお母さんと一緒にお参りしてくれました。泣く様子もなく、終始ごきげんさんでした。

ご家族に、「今日は初参式ですね」とお話ししました。生まれて初めてお寺に参って、そのことを阿弥陀さんに奉告することを初参式といいます。

亡き方からみるとひ孫さんです。

いのちのリレーは不思議です。

量ることができないいのちのつながりのなかでみんな生まれてきて、そして支えられています。

そのことを思うとき、いがみ、憎しみあうことのおろかさを感じさせられます。

きょうお参りしてくれた赤ちゃんは、そして、いまの幼い子どもたちは、私が見ることのない22世紀まで生きていく世代です。

私たち世代の責任を感じつつ、きげんよくお参りしてくれた赤ちゃんの笑顔に癒された週のはじめでした。

お寺で集いをしました

お寺で勉強会をしました。年間5回の予定で今日が初回です。住職含め10人の参加でした。

浄土真宗の「教章」について、休憩はさんで80分ほどお話しました。私の話が長すぎて感想交流をする時間がなくなってしまいました。

こうした場にはじめてこられた方が、「なぜか亡くなった両親のことが思い出されて涙が止まらなかったです。自分の心のどの部分にひびいたのか分かりませんが、気持ちのよい時間を過ごさせていただきました」と感想を記してくださって恐縮しています。私の話というよりも、阿弥陀仏のお慈悲はこころに響く、そういうことだと思います。

次回は5月30日(日)午後2時からとなります。

おやつは坊守のつくったケーキです。

仏教は遺されたもののために

きょうは四十九日のお参りでした。

お参りの方からお勤め後に話しかけられまた。「私は他宗ですが、妻を7年前に亡くし、ことしは99まで生きた母の3回忌でした。妻が亡くなってから少し仏教にふれました。きょうのお話もそうでしたが、仏教というものは、亡くなった人のためでなく、遺されたもののためにあるんですなぁ」。

きびしい別れではあったけれども、それもご縁に仏教にふれられたのでしょう。

別の方からは、「しんらんさまの歌詞カード、いただいてもいいですか?」と。「どうぞ、どうぞ」と差し上げました。本堂の内陣が金色であることに驚いておられたので、その理由についても少しだけお話ししました。

あしたも四十九日のお勤めです。気持ちを込めてのぞみたいと思います。

ちょっと驚きました

大きな字については、僅かではありますが進歩の兆しがあるように思うのですが、小さい字を書くことは大の苦手で、肩の力が余計に入ったり、気がつくと息を止めて書いていたりとなかなか平常心で書けません。そうなると余計に下手くそになってしまい、書き終わってガッカリすることがあります。

このたび過去帳を新調されたご門徒さんより記載を依頼され、先ほど書き終わりました。

過去帳は小さいですから、必然的に小さな字を書かなければなりません。書き終わってみると、これでは申し訳ないなあといつも思いつつ書かせていただいています。

しかし、急には上手になりませんから、希望は持って練習しているところです。

今日は書いていてちょっと驚くことがありました。ずいぶん以前にお亡くなりになったお父さんと、昨年お亡くなりになったお母さんのご命日が全く同じだったのです。お父さんのご命日は旧暦で表示されており、新暦に換算するとお母さんのご命日と一緒であることがわかりました。

偶然のことではありますが、過去帳の見開きのページに、お父さん、お母さんのご法名と俗名を記載することができました。

上手ではなくて恐縮ではありますが、お仏壇の前に座り、まず阿弥陀さんを拝んでいただいて、そして、お父さんお母さんのことを思い拝んでいただけたらありがたいなあと思うのでした。

墓地からもどつて来ても一人

お彼岸も終わり、お寺の内陣のおかざりももう普段通りです。網代地域のお墓に彼岸の最中にお参りしましたが、数百はあるお墓にお花が飾られて、それはきれいでした。

さて、きょうは習字教室です。引き続き放哉を書いています。

「墓地から戻って来ても一人」

「あらしがすっかり青空にしてしまつた」

放哉は墓参りにひとりで行って、帰って来てもひとりという淋しさを読んだのでしょうか。

小豆島で過ごした晩年の8ヶ月で3000もの句をつくっています。世間とは折り合いがつけられず、極貧の生活を送り、病気も抱えていました。最後は大自然のなかに溶け込んで生きよう、自分の生きた証を句に遺そうとしたのでしょうか。近いうちに時系列的に彼の作品を読んでみたいと思います。

習字教室の方は、新たにこられるようになった方、再開した方と、少しにぎやかになってきました。次回からはさらに2人の方が新たに参加されるそうです。

僧侶の意見交換会に参加して

第4回目となる僧侶の意見交換会に参加しました。会場は鳥取市内の養源寺さんです。

まず養源寺さんよりとりくんできたことの紹介があり、その後、お寺内を見学して回りました。

門徒会館は、お通夜ができる施設です。霊柩車が玄関先につけて台車に棺桶をのせ、そのまま御本尊のところまで運ぶことができるそうです。また、ご遺族が宿泊できるようになっています。葬儀は本堂でお勤めされ、門徒会館からもお参りできるようにスクリーンも設置されています。

学ばさせていただいたことをうちのお寺でも役員のみなさんと共有したいと思います。

お寺での集いにむけて

次の日曜の午後、お寺で勉強会があります。

浄土真宗本願寺派には「教章」という短い文章があります。同じ宗門に集う方たちに、浄土真宗の要旨を伝えるとともに、新しくご縁のできた方々に知っていただく自己紹介といったテキストです。

https://hongwanji-shuppan.com/source/download/k_a4.pdf

この「教章」の解説を私が行うことになっていて、昨日からにわか勉強をしています。

初めて知ることもあって、なかなかおもしろい。

例えば山号。お寺は○○寺の前に○○山とついていることをご存知でしょうか。

本願寺は龍谷山本願寺が正式な名称です。龍谷という山号。本願寺の原初が京都東山のおおたににあったことが由来です。漢字で変換できないのですが、このおおたに、「谷龍」の一文字の漢字で「おおたに」と読むそうです。だから龍谷という名称の学校法人があるのですね。

西法寺の山号は浄教山。地図を探してもうちの近所にそんな山はありません。お隣の天台寺院さんは医王山。薬師如来の別名は大医王仏です。そこからとられているのだと思います。

と、こんな話は教えとあまり関わりのないことなのですが、みなさんに興味をもってもらえるようなエピソードも盛り込んで、楽しい勉強会にしたいと思います。

『日本のSDGs』を読む

おもしろく、ためになる本です。

SDGsとは、「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。

本の著者・高橋真樹さんは、そのことを、「いまの世代のニーズを満たすことだけを優先して、将来世代の可能性を奪ってはならない」とわかりやすく言い直しています。

我が亡き後に洪水は来たれ! とルイ15世の愛人・ポンパドール婦人は言い放ったそうですが、現代は我ある時にすでに洪水がきている状況です。さらにひどい事態を次の世代にひきつぐことはしたくありません。

本書では、どうすれば本当に持続可能な社会に進むことができるのか、政府や企業の取り組みとその問題点(経団連の推進するソサイエティ5.0など)が浮き彫りにされます。そして、持続可能性という観点から貧困、働き方、地球環境などの課題をとらえることができます。さらには各地の実践の紹介もあります。

私もSDGsには強い関心をもっています。お寺の掲示板にも先日、ロゴを貼り出しました。

仏教には少欲知足という教えがあります。なんちゃってSDGsにならないように実践していきたいと思います。