きょうは四十九日の法要、そして納骨がありました。
人間として生まれたことは大変なことだなあと改めて思わされます。
お釈迦様はこのような例えを残されています。
一切れの板を大海に投げ入れよう。その板には1箇所孔があいている。大海には1匹の目の見えない亀がおり、百年に一度だけ海面に浮かび首を出す。この亀が海を漂う板切れの孔に首を出すことぐらい人に生まれることは難しい。
生まれ難い人に生まれ、生涯をまっとうされた方の納骨にあたり、人に生まれた不思議さを感じるのでした。
きょうは四十九日の法要、そして納骨がありました。
人間として生まれたことは大変なことだなあと改めて思わされます。
お釈迦様はこのような例えを残されています。
一切れの板を大海に投げ入れよう。その板には1箇所孔があいている。大海には1匹の目の見えない亀がおり、百年に一度だけ海面に浮かび首を出す。この亀が海を漂う板切れの孔に首を出すことぐらい人に生まれることは難しい。
生まれ難い人に生まれ、生涯をまっとうされた方の納骨にあたり、人に生まれた不思議さを感じるのでした。
坊守です。寒いですね。
鳥取で、環境問題にとりくんでおられるお友達から、イベント案内がありました。主催は、とっとりエネルギーの未来を考える会、並びに鳥取県人権文化センターです。
311から時間が経ちましたが、被災地ではいまだ苦しみは続いています。
ゲストは福島県内で地域再生にとりくんでいる、農業の菅野正寿さん
国際環境NGOの満田夏花さん
【福島のいまと私たちの未来】
とき:11月30日14-17時
ところ:鳥取県立人権ひろば21ふらっと
1.「見えない化」のすすむ原発事故と被害の現状
2.持続可能な環境、循環、共生の社会をつくるために
3.トークセッションとワークショップ
■申し込みが必要です
問い合わせ先
070-5554-5813
(手塚)
気がつけばもう11月も終わり。次の日曜は12月です。西法寺では5日に初めてとなる忘年会を開くことにしています。町内の料理屋さんでお昼の会食です。13人が参加予定。楽しい時間になりそうです。
今年5月に代を替わり、いくつかはじめたことがあります。
どなたでもお参りできる法要を増やすこと、お通夜・葬儀で一緒に読める経本をつくること、定期的なお寺清掃、お寺の通信を出すこと、ホームページの開設、椅子・机、スロープの設置。忘年会もそうです。
東部の浄土真宗のお寺を回るなかで、見たり、教えていただいて、いいなと思ったことを取り入れてきました。
特に、お寺内を椅子・机にしたことは、みなさん喜んでくださっています。やっぱり結果が見えるとうれしいものです。
ただし、上手な字を学ぶ、真似ることはすぐに結果がともないません。昨日からの続きですが、これは弛まぬ努力しかないのでしょうね。
「怠ることなく努めよ」とお釈迦様もいっておられますから。
隔週で習字教室に通っています。先生は町内の僧侶の方で書家としても活躍されています。もともと上手だったのかなと想像していたのですが、今日うかがったところ、習字の上手い檀家の方から下手くそすぎると指摘され、そこから勉強されたそうです。希望の持てる話を聞けました。
さて、最近の課題は般若心経です。浄土真宗ではまず読むことがありません。般若心経は尊いお経です。今日も意味を考えながら書いていましたが、仏の智慧を授かって、自ら悟り・目覚めてゆくという自力の道が説かれています。リズミカルで心地よくもあります。
浄土真宗は、阿弥陀仏の必ず救うとの本願を信じる道です。「いずれの行もおよびがたき身」(親鸞聖人)が念仏により救われていく道です。
他にも道はあるけれど、私にはこの道以外にないということかなと思います。ですから般若心経は読む機会がありません。
もっとも私などはうまくなりたいという煩悩のみで般若心経を書いているので、とても仏さんの智慧を授かってなどということはいえないのですが、、、。
岩美町もようやく紅葉の時期を迎えたようで、晩秋の色になってきました。
紅葉の時期が遅くなり、自然災害の被害が甚大になっています。地球温暖化をどう防ぐのかは差し迫った課題です。
報道によると、昨年度の温室効果ガス排出量が553億トンと過去最高を更新したそうです。
産業革命前からの気温上昇を1.5℃にとどめる努力目標を達成するためには、各国が合意した削減目標の5倍が必要です。
現在決定している対策だけでは2030年に気温は3.2℃上昇すると国連環境計画は警鐘を鳴らしています。
グレタ・トゥンベリさんはじめ、世界で若い世代が気候危機に立ち上がっています。
人間が生存できる環境は、数十億年かかってつくられたものです。それを人類の経済活動によって数百年で壊してしまっていいのでしょうか。
仏教は古くから寿命が短くなる命濁という警告を発してきました。
それとともに、たとえば『無量寿経』のなかに、「欲少(よくすく)なく足(た)るを知る」=小欲知足、欲望をむき出しにしない生き方を説いてもいます。
私たち一人一人の選択が問われます。
夕飯の食材を買いに道の駅にいくと、「西法寺さん?」とまたしても声をかけられました。見覚えのある方ですが名前が出てきません。「〇〇です」と名乗られたので、「先日はありがとうございました」と会話が成り立ちました。
今月の初めに法事でお参りされた御門徒さんでした。
町内でも雪深いところにお住まいの方なので、「今年はどうですかねぇ」と冬の話題に。
その方は、「カマキリが卵を高いところに生んでいないから、雪はそんなに降らないかも。迷信かもしれませんが」とおっしゃいます。
えっ?!と思ったので調べてみると、たしかにそんな学説を唱えた研究者の方もいたそうですが、事実ではないようです。
でも、自然と触れ合って生きてきた方のなかには見たり、体験したりする中でそうなのかもと思うことがあるのかもしれないなぁと。
そういえばカメムシが多い年は雪が多いという説があります。去年、大発生しましたが雪はほとんど降らなかったので、これも俗説でしょうね。
2017年にノーベル平和賞を受賞したICANとともに活動する被爆者・サーロー節子さんの『光に向かって這っていけ』を読みました。
私は13歳の時に被爆した。命からがら生き延びたが、倒壊した建物から逃げ遅れた同級生たちは生きたまま焼かれた。混乱の極みの中で、姉と甥を荼毘に付した。
一人一人の尊厳がないがしろにされる、その究極形こそ、核兵器という最悪の無差別殺傷兵器の使用がもたらす破壊なのだ。
13歳の少女だった私は、煙が上がるがれきの下で生き埋めになりながら、力の限り、光に向かって前に進みました。そして生き延びました。今の私にとっての光は、核兵器禁止条約です。諦めるな。前に進め。光が見えるだろう。それに向かって這っていけ。
核兵器を使う場合があるという発想自体、大量殺戮を国家安全保障の名の下に「是」とする価値観が潜んでいる。よく考えると恐ろしい人間の所業だが、命ずる者も実際に手を下す者も往々にして、冷酷な鬼ではなく、普通の人間である。
沈黙は悪い政治を続けさせることであり、日本の核兵器禁止条約参加への道が一歩も進まないことを意味する。
「平和とは、ただ戦争が存在しないというだけではない。すべての人に社会正義をもたらそうとする努力のプロセサスである」。人生の最後の瞬間まで、前に進む。
彼女の言葉は重く、胸を打ちます。
核兵器のない世界を。
長崎でのスピーチを読みました。
核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。
人の心にあるもっとも深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良のこたえではありません。
ローマ教皇の核廃絶への強い決意を感じます。
NHKは、生中継でローマ教皇の広島市平和公園への訪問を伝えています。浄土真宗本願寺派の専如門主の姿もみえました。日本宗教界の代表も招かれているようです。
被爆者の方がたを労るように見つめ、声をかけ、ことばをかわし、手を握り、肩を抱く姿に胸が熱くなります。
核兵器廃絶をめざすとりくみ、そして日本政府が核兵器禁止条約を批准するよう働きかけることなど、日本の宗教界が力を合わせることが強く期待されます。
私もがんばります。
漁港へのおつかい帰りに網代に足がむきました。道場にはあがらず、久しぶりにネコの泉に直行。
小さな空き地に陽だまりができていて、近所のおばちゃんと世間話をしながら、子猫をなでなで。
夏には11匹居たのが、だいぶ貰われて、5匹になったそうです。うまく声の出ない、からだの小さいのが、膝に飛び乗ってきたので「寒くなる前に、おじちゃん(住職)の家の子にしてもらいなあ」と、和歌山弁で話しかけていたら、住職が別の場所でさらに小さな子猫を見つけてきました。やわらかくてあったかい、おもしろい生き物です。
毎日彼らを撮影に来る人もいるらしく、猫好きにはちょっとしたスポットになっているのかもしれません。
なんの入れ物もないので、連れて帰りませんでした。住職のクルマに段ボールを置いておいてもらおう。
きょうは13回忌のお参りがありました。20人をこえる方たちがお集まりで、久しぶりに会った方も少なくないご様子です。
若い方もいらっしゃったので、親指と小指の話をしました。
人差し指、中指、薬指を折ってみると、親指が小指の方を向きます。ところが小指は向きません。
親指はそれに構わず小指を向いています。
親指は阿弥陀さん、小指は私です。
妨げている指は、貪り、怒り、愚かさ。わが身のありようです。
親鸞聖人は阿弥陀仏の必ず救うぞの願いのなかに生かされる生活のなかで、貪り、怒り、愚かさを好まなくなり、少しずつマシになるとおっしゃっています。
みなさん指を折っていました。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし
向かない小指を親指の方に向けていくことに、いかに生きるのかのヒントがあると思います。