今日からぼちぼち仕事を再開しました。
午前中は50回忌のおつとめです。
以下のようなお話をさせていただきました。
仏教は縁起を説く教えです。「いのち」は、多くの「いのち」のつながりの中にあるということです。もっと噛み砕いていうならば、「いのち」とはもちつもたれつということです。ですから、「関係ない」という言葉は、仏教からはほど遠い言葉といえます。本来関係あるのに関係ない「いのち」と分けてしまうことが、いじめや差別、果ては紛争・戦争などの問題の根にあるのではないでしょうか。
「いのち」には、長い長い歴史があります。私が生まれてくるまでにすでにあったのです。50回忌は、葬儀の日からもっとも遠い年月を経て行う法事です。その間にも人は生まれ、去っていきます。それでも法事をつとめるということは、大きないのちの流れの中に私もあるということを、亡き方から教えていただいているのだと思います。故人を偲びつつ、自らの歩みを振り返ってみるという意味もあるでしょう。
そう考えてみますと、私たちは数え切れない「いのち」に護られ、支えられて生きていることがわかります。家族、友人、知人はもちろんですが、顔も名前も知らない人たちによって日々の生活は支えられています。漢字で書いてみると、「無量寿」「無量光」です。インドの言葉でアミダです。私たちは阿弥陀の世界に生きているのです。
私自身、この無量寿・無量光ということを考えてみますと、お恥ずかしい姿しかありません。こうした教えに出遇えなかったら、生涯、垣根を作って、お互いの「いのち」をそれほど気にも留めないで生きていたかもしれません。
日本人で「私は無宗教」とこたえる人は7800万人ほどいるそうです。世界で見ると中国に次いで第2位です。無宗教でも構いませんが、「無量のいのちに支えられ私がある」という自覚は、生きていく上で大切であると思います。
長きにわたってご法事をお勤め下さいまして、誠にありがとうございました。