悲しみのなかに見えてくること

今日ご往生された方のご自宅で臨終勤行をつとめました。『阿弥陀経』を読んでいる最中からネコが鳴いています。飼っているのかなとお尋ねしたところ、「母がエサをやっていた野良猫なんです」とのこと。エサが欲しいのでしょうが、私はネコも受け念仏を称えてくれているのかな、別れを悲しんでいるのかなと思って聞いていました。

以前にも網代のお墓でお経を読んでいた時、ニャアニャアと節々で鳴くネコがいました。今日よく使うウケるとは、僧侶の説法を「なんまんだふ」と受け念仏することからきた言葉だとブログに書いたことがあります。

お経を読み終わり、在りし日の姿をご家族からうかがって帰ろうとすると、近所のご門徒さんが線香をあげるために来られました。雨のなか、少しのあいだ立ち話に。その方とお会いするのも久しぶりです。こういうことを、亡き方のお導きだなぁと思えるようになりました。

今日では健康と若さ、長生きを幸福、老病死は不幸なことと遠ざけようとしています。亡くなられても葬儀をしないという方も増えています。一方で、儀式をすることで人は人としての心を育ててきたといわれます。

葬儀とはなんのためにつとめるのかと、葬儀のたびに考えさせられます。

死というのは私の思い通りにはいきません。そのことを受け止めたとき、なぜ人に生まれたのか、生きることには何の意味があるのか考えさせられる機縁にもなると思います。悲しみを体験しないと見えて来ないことがあります。死を考え、人生をよりよく生きるための大切な教えの場、それが葬儀ではないでしょうか。

自分に今できる精一杯のお勤めをさせていただきます。

合掌

投稿者: 西法寺

西法寺のHPを管理している釈大朗です。よろしくお願いします。

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