お盆参りの段取りをつけるために、今日もパソコンの前で格闘しています。
その合間に、古い本ですが、本願寺が30年以上前に発行した『続ともにきく われらの法座』という本をめくっています。著者は藤田徹文さん。本願寺派の伝道院部長を勤められた方です。
「みんなが『われら』と連帯するところに浄土真宗がある」
「『われら』は、親鸞聖人の教えの中心的課題」
「浄土真宗のお寺があるということは、そこに御同朋という暖かい社会が築かれていくことでなければ」
「あの人ら、他人、敵というようなことがなくなる社会が開かれていかなければ」
「そういう役割をどこかで失ってきた私たちの教団がもう一度、本来の御同朋・御同行というところへ帰っていきましょう」
藤田さんの指摘に、ガツンときました。あなたは何のために僧侶になったんですか?と問われる思い。
親鸞聖人は、「いし、かわら、つぶて」のような「われら」であるとし、社会の底辺の人たちに暖かい眼差しを向け、自らもその立ち位置で生きられました。そんな底辺で生きることを強いられた人々が、阿弥陀仏から賜った信心の中に生きることで、「こがね」となると説かれています。
そこには身分、貴賎など人間が作り出した区分けを超えた人間の尊厳や平等を見つめる視点があります。実は、浄土真宗を私自身が見直したのは、この「われら」意識にありました。2年前、中央仏教学院で先生から教えられ、鎌倉時代にこんなことを考えていた人がいたのかと唸らされたのです。
お勤めを実務的にしてはならないなあと反省。
お盆参りは年中行事ですが、暖かい関係づくりの機会でもあると意義を捉え直して勤めないと!