今日は朝からお墓でのお勤め、そして法事が3件と忙しい日曜です。
いずれのお勤めでも、一緒にお聖教をあげてくださる方がいらして、にぎやかな法要でした。「前に住職から阿弥陀さんが前屈みに立っておられるという話を聞いて、私も手を合わせるときに、そうやって助けて下さろうとしているんだなあと思いながら手をあわせるようになりました」。帰りがけにそう声をかけてくださる方もありました。阿弥陀さまは蓮の花の上に立ち、いつも私たちに前屈みです。
境内の蓮は、甕からなかなか茎が伸びてきません。昨年は6月末には花が咲いていたので、少し心配しています。
昨日、金子みすずさんの詩に曲をつけて歌う吉岡しげ美さんの歌声にふれました。
みすずさんに「蓮と鶏」という作品があり、買い求めたCDにあるかなと探してみましたが、残念ながら収録されていませんでした。
泥のなかから
蓮が咲く。
それをするのは
蓮じゃない。
卵のなかから
鶏が出る。
それをするのは
鶏じゃない。
それに私は
気がついた。
それも私の
せいじゃない。
おのずからなることを自然(じねん)といいます。
ものすごいいのちの営みがあるということ
生かされているということ
それにみすゞさんは気がついて、私たちに気づかせてくれます。そして、気づいたのは、私の手柄ではないよということも教えてくれます。
仏さんも同じです。拝んでいるのではなくて、拝まれているということです。それに気がつかされて、また手をあわせるのです。
ちょっと難しいですかね。
蓮に対して私にできることは水をあげることくらいです。
あとは自然の世界におまかせです。
でも、咲いてほしいなあ。
金子みすずさんの詩、感激しました。
いいねいいね