人は翌日には前日のことの7割を忘れると言います。
だから大事なことは記憶し、忘れないようにしないといけません。
東日本大震災から今日で13年になります。
ここにも記したことがあったと思いますが、当時、私は東京に住んでいました。翌日が祖母の3回忌で、鳥取に戻るべく午後は仕事を休み、地震発生時は最寄りの亀有駅から出て家の方に歩き始めたときでした。大きな揺れが発生し、立っていられないほど。
周りを見渡すと、地面に伏せる人の姿も。電話ボックスが折れるのではないかと思うほど左右に揺れていました。揺れがおさまり、家に急いで帰ると津波が沿岸部をのみこんでいく様子をテレビが報じています。福島原発も津波に襲われ、全電源を喪失、爆発事故も起こりました。
翌日からはかなり極端な間引き運転が始まりました。電車に乗り切れない人たちが多数。駅前から改札、そして駅構内と、乗る順番を待つ人の列です。
3月15日、当時の職場から仙台で主に支援活動の拠点となる事務所の要員を依頼され、翌日、羽田から山形空港へ、そしてバスで仙台市へ。ゴールデンウィーク期間中まで、何回か東京に戻りつつ、仙台で仕事に当たりました。
できる時はボランティアにも参加しました。全壊した市営住宅に住む高齢者の引越しの手伝い、要望を聞いたり、必要な物資の手配をしたり、使える制度を調べたり。
被災地での仕事を終えて以降も、何度か、主に福島県に仕事で行く機会もありました。「山名さん、放射能への不安を誰にも話せず、モヤモヤを抱えて生きている人がたくさんいますよ」
福島市在住の友人が、移動中の車の中でポツリとつぶやいた言葉が、今でも忘れられません。
鳥取に帰ってからも、震災や原発に関する情報はなるべく目を通すようにしています。
朝、NHKニュースを見ていると、災害公営住宅で孤独死される方が相次いでいることを取り上げていました。住民の高齢化が進んでいること、自治会活動などボランティアの方たちも、新たな担い手も少なく、自身も高齢化で十分な役割を果たせなくなっていることなど伝えていました。
ニュースは、せっかく生き残った命が誰にも看取られずに失われている現実と、それにに胸を痛める人たちの姿を映していました。
別の報道によると、団地住民を見守る支援相談員はピーク時の半数になっているそうです。
どんなに頑張っても個人の自助努力や共助には限界があります。
「災害には公的なバックアップで支援する。それも支えに、どうか生きましょう」
「公」の仕事とはそういうことだと思うのですが。
震災から13年。
東日本大震災を忘れない。
原発事故を忘れない。
今なお苦しい思いを抱えて生きる人たちのことを忘れない。