1995年1月17日の早朝、激しい揺れを感じて布団から飛び起きました。
当時は京都市右京区内で生活していましたが、同じアパートの住人も皆、共用の廊下に出て、お互いの無事を確認したものです。京都は震度6であったと記憶しています。
仕事に出かけると震源が神戸市であることを知りました。被害の状況がだんだんと明るみとなり、大変なことが起こっているとわかりました。
友人たちと街頭などに立って初めて募金活動をしました。そこで寄せられた募金で肌着や食材などを買えるだけ買って、1月20日、神戸市に向かいました。東から市内に入ることは困難で、大きく迂回し、六甲山を南北に通る鉄道に乗りました。当時、唯一、市内に入ることが可能なルートだったのです。市内中心部の三宮で陸上に出ました。
何度か来たことがった神戸の風景は一変していました。
倒壊したビル、大きく陥没した道路、倒壊した高速道路、鳴り響くサイレン。今でも鮮明に覚えています。
それから1月あまりのち、神戸市内の公園で炊き出しをしようということになり、寸胴にシチューを作り、ワゴン車で向かいました。高速道路は寸断されていましたが、通行可能な箇所を警察車両が先導してくれ、神戸市内に入りました。公園周辺でアナウンスして、たくさんの被災者の方たちがやってこられました。
3年ほどのち、神戸市内の仮設住宅で、過酷な暮らしを知るとともに、住民をつなぐために頑張っていた仮設住宅の役員さんに話をうかがったこともよく覚えています。
今日で、阪神淡路大震災から29年。神戸のみなさんが「共に」というメッセージを発せられたとニュースが伝えていました。
東日本大震災、熊本地震、能登半島地震と繰り返し災害が襲ってきます。震災につよい地域、日本をめざさなければと改めて強く思います。