昨日はお釈迦の誕生日でした。752年の今日は奈良の大仏が開眼した日です。
当時の天皇は疫病や飢餓を仏のご加護で鎮めたいと考えたのでしょう。それは叶わなかったけれど本来、いのりとは自分のためでなく、誰かのためになされるものなのかもしれません。
浄土真宗はいのりを使わない宗派だといわれますが、親鸞聖人は、門弟への手紙で「世のいのり」という表現を使っています。
現世利益を求めるような加持祈祷はしないけれども、阿弥陀仏による私たちをどうにかして助けようとの働きをいのりと捉えていたのではないかと思うのです。そして、その願いを自己の願いとして生きていくことに念仏者の生き方があるとお考えであったのではなかろうかと。
阿弥陀仏の願いは無量寿経にあります。いくつかあげてみると、
自己中心的なむさぼり、怒り、愚かさがないようにという願いです。これは、私たちの理想的な人格のあり方を願ったものと受け取ることができます。
浄土に生まれる人びとはみな輝き、美醜や貴賤の差別がなく、等しく平等にという願いです。人類社会の理想的なあり方は、実はこうではないのかと阿弥陀仏は願っていると受け止めて私は読んでいます。
お互いの思想や信条は尊重しつつ、念仏者は仏の世界、仏のいのりを少しでも実現するために、みなと力を合わせることが求められていると思います。大仏開眼の時代よりその可能性ははるかに広がっているのですから。