くらしの仏教語

『大乗』(本願寺出版)という月刊誌に「ミドルエイジのための仏教語」というコーナーがあります。6月号で取り上げられているのが「玄関」です。

今は建物の入り口を「玄関」といいますが、もともと「玄妙な道に入る関門」という意味で、奥深い教えに入る手始め、糸口をさしていたそうです。

禅寺の宮殿に入る入り口を指すようになり、江戸時代になって式台(かまちの前の段)を構えている出入り口を玄関というようになり、明治時代以降は住居や公共建築などの出入り口をさす言葉となったということです。

私たちが普段何気なく使っている言葉の元を辿ってみると、結構、仏教に元があった、ということが他にも様々ありそうです。

玄関や勝手口の段差部分に取り付ける化粧材を框(かまち)というそうです。

「2000万円足りない」

「夫婦2人で2000万円足りない」

年金だけではこんなにも足りない分が生まれてしまうという金融庁の正直な試算を、政府自身が「不適切」と否定に躍起ですが、試算自体は否定できないようです。

昨日の国会では、現在41歳の夫婦では3600万円にまで拡大するという指摘が野党議員からありました。

長寿の社会を、自分の力で、才覚で生き抜けということなのでしょうか。

高齢夫婦の娯楽費は総務省の調査で月2万5千円、交際費は月2万7千円にすぎないそうです。

一日に換算すれば数百円です。経済的な理由で外出も、人付き合いも控えなければならない方も多くいらっしゃることでしょう。

政府の方達は、こうした高齢者のみなさんに、「株を買え」「試算を運用せよ」というのでしょうか。

7月は参院選挙もあります。宗教者は社会で起こっている課題に対して無関心であってはならないと思います。

田辺聖子さんのこと

田辺聖子さんの訃報にふれて。好きな作家さんのひとりでした。

未婚の中年女性、再婚同士の家族…世間の既定路線からは少し外れた人たちを生き生きと描く、関西弁まじりの、あたたかさと笑い溢れる小説で知られていますね。

私はこうした小説も好きですが、

昭和ひと桁に生まれ、戦中戦後を生きた人の証言ともいうべき自伝(『楽天少女通ります』『欲しがりません勝つまでは』)や、

阪神淡路大震災を体験して書かれたエッセイには、大きく心動かされました。

いのちのかけがえのなさ、人のあたたかさ、私たちは何を大切にしていけばエエんやろ?という問い…。

阪神大震災後のエッセイにはこんな一文があります。少し長いですが引用します。

「活断層の上であっても、また生き直せるという風な思想を私たちは育てなければいけない。(中略)それは自分だけが助かろうというのではなく、みんなで手をさしのべあって生きてゆく、という思想です。」「空襲と震災のちがうところはもう一つ。空襲にあった人たちは煤と泥だらけで真っ黒になりながら、次から次へと田舎へ脱出していきました。震災では反対に外から肉親、友人を案じて、水と食料を背負った人が、続々と阪神間や神戸をさしてやってきました。寸断された道路を歩きつづけ、瓦礫をふみこえて焦土に入ってきました。知人や身内のいない人も『おにぎりあります』と背中に書いて歩きました。それを思えば人間の原型はここにあると思います。活断層の上でも生きられる理由です」(『ナンギやけれど…わたしの震災記』より)

前の仕事の関係で、ご自宅に取材にあがったことがありました。

田辺さんが連続テレビ小説のモデルになった時のこと。〆切に追われていたにも関わらず

、対応は丁寧で優しかった。舞い上がりすぎて、サインをお願いすることさえ忘れましたが、原稿に赤入れしてもらったFAXはとってあります。

看取った旦那さんとは、お浄土で「また会える」と聴いておられたそうです。そして、「自分のお葬式にはどんちゃん騒ぎしてほしい」とも書いておられました。でも、やっぱり、身近な人たちには寂しいに違いありません。私でさえ寂しいのですから。(坊守)

研修に行ってきました

石畳と蔵の風景のある若桜町で、因幡組(いなばそ)仏教婦人会の総会がありました。

おっかなびっくりの初参加。総会自体は1年間のふりかえりと今後の活動方針の確認などで一般組織のそれと変わったことはありませんでしたが(日頃の活動に敬意を持って)。

午後から続いた研修での講話はたくさんメモをとりました。

テーマは【浄土真宗はなぜ「浄土真宗」という名前なのか?】

たくさんメモを取りましたので載せられません。

ですが、心に残ったのは、

浄土教は「万人が平等に救われる」という教えが、危険思想であった時代に生まれ、弾圧もされたが、それでも伝えようとした開祖たちに思いを馳せる時間であったこと。

また、浄土真宗という宗派の名前は「生き方」〜浄土の真実を宗(むね)とする〜を表している、という解説でした。人間の思慮や分別を超越した真実(「如」)の世界である浄土から「前を向いて胸を張れるか?」と問われる生き方。

駆け出しのワタシにはうまく説明することは難しいですが、

こんな風に心に芯を持てた人は、人生に色々あっても生き抜けるし、他者の苦しみにも心を寄せて行動できるだろうな、と考えたのでした。

(坊守)

「女らしさ手当」って

『無量寿経」というお経があります。

浄土真宗では、最も大切なお経という位置付けです。

のちに阿弥陀如来となる法蔵菩薩が、48の願を立てるところが、一つのハイライトです。

有名なのは18願=「仏の救いを信じ、念仏すれば仏にする」ですが、他にも興味深い願が誓われています。

第38願では、「衣服が欲しいと思えば、仏の心にかなった尊い衣服を自ずから身に付けることができるでしょう。そうならなければ私は仏になりません」という誓いがうたわれます。

衣服を得ることをはじめとして、生きるためにあくせくしている状況に終止符を打って、心配しなくても願が満たされる、そういう世界が浄土であるということになるのでしょう。

なぜこんなことをあげたのかというと、

メキシコ市が公立小学校の制服をスカートでもスラックスでもどちらでも構わないようにした、というニュースに

また、ロシアのある企業が、女性がスカートを履き、化粧をして出勤したら「女らしさ手当」を出すというニュースにふれたからです。

着るものには、確かに困ることはなくなっている社会なのかもしれませんが、服装を選べない、女性はスカートということがなんとなく強制されるような雰囲気がまだまだあるなあと思います。

メキシコのニュースに感心し、ロシアのニュースにはどうなのかなあと思った次第です。

梅雨入り間近

各地で梅雨入りの報がきかれるようになりました。

ひと雨降る前には、ゲコゲコと、ゆかいな両生類の声がどこからともなく響いてきます。

本堂の濡れ縁あたりにはアマガエルが、

そして、我が家の手水鉢には、トノサマガエルが棲み付いています。

お釈迦様は鹿相手に説法されたといわれます。

私もカエル相手に説法したらナンマンダブと鳴いてくれる?

わけないですね。

サザエは20円

草刈りとひまわりに水をあげるため網代の布教所へ。

ひまわりはぐんぐん育っていて一安心。

しかし、庭の草もぐんぐん育っていました、、、。

近所を歩いていると、ご主人が漁に出ている門徒の奥さんがいらっしゃったのでごあいさつ。

今の時期はサザエ、アワビ、岩牡蠣がとれるとのこと。どこでとれるものが美味しいのかも教えていただきました。

いまが旬のサザエ、浜値は20円ほどにしかならず、数がとれないと厳しい漁であるということです。意外でした。

「お金を稼ぐのは難しいわー」と実感こもったひとこと。

日々の暮らしを送りながら、お寺を支えてくださっている方たちがいらっしゃいます。

気持ちを込めてつとめなければ。

ちなみに、日本の食用魚介類の自給率は1964年度の113%をピークに現在は約56%にまで落ちているそうです。主な要因は、国内生産量の減少です。従事者が減っていることも大きいのでしょう。地域を支える漁業関係者の方たちをもっと真剣にサポートする仕組みづくりが必要な時期なのではと思います。

ユリが咲きました

きょうも畑のニュースです。

ユリが初めて咲きました!

うちの本堂の仏華にはだいたい入っていて、身近な花ですが、育ててみると、手間がかかりました。

ユリを専門に食べる虫がいて(知らなかった)どこからかやってきて、ユリの成長とともに派手に食べ散らかしてくれるようになりました。

幼虫も成虫もカラダは派手なオレンジ色。見つければ取り払うのですが、幼虫は自分の糞を背負って過ごす不思議な生態があるので、遠目には彼らの存在が分かりにくいのです。

そういえば、仏教の初期の時代、僧侶がまとった衣も糞掃衣(ふんぞうえ)といったそうですね。

さて、第1号は咲いてくれましたが、無事に咲きそうなのは、植えたうちの6割、5割…というところです。

ちなみに、ユリを偏食する虫は、【ユリクビナガハムシ】というお名前です。

目には見えないけれど

実家から小さな苗で貰ってあったヤグルマソウが咲きました。

乾物やミカンなど、色んなモノが入った段ボールの隅に入っていた小さな苗が、冬が終わり気温が上がると大きくなり始め、畑に移植すると、またいちだんと育っていきました。

お日様の光のエネルギーや、畑の土の養分、目には見えないものが色んな形で開花を助けたことに、私のいまがあるのも、同じことなんだなぁと、珍しく真面目に思うのでした。(坊守)

凡夫とは

日曜日の法事で、浄土真宗でよく言われる「凡夫」について、以下のようなお話をしました。

①自分にとって都合のいい人にはいつまでもいて欲しいと思う心
②自分にとって邪魔な人に対して腹を立ててしまう心
③自分にとって都合がいいか、悪いかで判断する心

そうした心から離れられない私のことを凡夫といい、悲しむべき自分を見つめることが大切ではないか。

そんな私のことをお見通しで、「必ず救う、我に任せよ」と働き続けているのが阿弥陀如来の慈悲の心であると親鸞聖人は受け取っています。

そこには、悲しむべき自分を見つめつつ、慈悲に照らされた新しい生き方があると思います。

「どうせ凡夫だから」と開き直るのではなく、
人と人との関係から、平和、人権、環境問題への関わり方などなど、
山積する問題にどのように向き合っていくのか、
時代を切り開いていく凡夫としての生き方が問われているように思うのです。