先生の言葉がよみがえる

今日の法事のあとのことです。
お参りされたご門徒さんがこんな話をしてくれました。

「昨日、お寺のホームページを読みました。それで思い出したんです。学生時代に仏教学の講義がありました。担当のT先生は、『いのちは光輝くものです』と私たちに話されました。今日、お経を見ながら、ここにはそんなことが書かれているのかなと考えていたら、泣きそうになりました」

ふだんは小学校の先生をされているそうです。若い日の記憶が、大きな励ましとなって今、思い出されてきたのではないでしょうか。

年回法要は、長い時間軸で物事を考えさせてくれます。亡き方が、そんな時間を用意してくださったのだと思います。

阿弥陀はアミタ。その意味は、無量です。
「量ることができません」

本来、「いのち」は量ることはできないのに、比較して、優劣をつけて生きるのが私たちです。そのことを誰よりも悲しく思い、だからこそ、救わなければと阿弥陀さまは、私たちに前屈みで立っておられます。

「誰かの目」ではなく、「仏さまの目」から自分を見つめてみた時、「これではいけない」という思いとともに、あたたかさを感じることができるのではないでしょうか。

勉強はしてみるものです

合間を見つけては視聴できていなかった真宗講座(本願寺広島別院主催)を視聴しています。

今日の話はマニアックなので、お読みすることは特に薦めません…。

今日まで続く寺檀制度というものがあります。どこかのお寺に所属するということです。はじまったのは江戸時代から。私は、徳川幕府が、キリシタン規制のために、どこかのお寺に所属するようにと民に強制したのだと思っていました。

しかし、「本願寺の歴史3」という講義の中で講師の三浦真証さんが、実際にはどうだったのかというお話をされました。

それによると、江戸時代になり、農業生産が安定するようになり、家族という単位が確立し、村が発展し、その中で先祖を供養するという欲求が高まり、集落にお寺が必要になってきた、ということでした。そして増えていくお寺を把握するために生まれたのが寺檀制度ではないか、という説明でした。

16世紀の初め頃には数百だった本願寺派の寺院は、17世紀末には8000をこえるまでに増えているそうです。西法寺も江戸時代初期に創建されました。他宗派も同じような変遷を経ているとのこと。

三浦さんは、「教団の運営は、家制度の変化によって規定される。家族の感覚が変わるならば教団は変わらざるを得ないということ」とお話しされました。

上からの強制で生まれたと思っていましたが、下からの欲求で生まれてきた制度とも言えそうです。私にとっては新たな知見でありました。

ちゃんと歴史を踏まえて、これからを考えないといけないなと思った次第です。

勉強はしてみるものです。

岩井屋さんにて新年会

きょうは地元岩井の岩井屋さんで町内会の新年会です。目にも美味しい料理をいただき、世間話に花を咲かせています。高齢の方も多いので、アルコールは少々。年に一度のことですが、こういう会がいつまでも続いていくといいなぁと思います。

今年最初の習字教室にて

「手本から好きな文字を一字選んで半紙に大きく書きましょう」との趣向で、私は「寶」を書きました。宝の旧字です。

過去帳に記載する際の習字は緊張の時間ですが、網代の習字教室は、2週に1回の楽しい時間ですね。

教室後は網代の集落を配り物をしつつ歩きました。雪は12月に一度積もったきりです。真冬とは思えません。数日、この陽気がつづくようです。

分かち合おうとする真心だけが

ロシアとウクライナの戦争の陰で、アフガニスタンの現状についての報道が極めて少なくなっています。最近聞こえてくるニュースとしてはタリバンによる女子大学教育の停止、NGO女性職員の出勤停止でした。もちろん、大きなことには間違いありませんが、実際に現地の人たちがどのように暮らしているのか、どんな支援が求められているのかについてはなかなか伝わってきません。

私にとって年4回届くペシャワール会の会報は、アフガニスタンの今を知る貴重なメディアです。現地で活動するPMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス 平和医療団・日本)の事務局長ジア ウル ラフマンさんの報告を読みました。PMSは、砂漠化した土地に水を引き、土地を再生し、農地として蘇らせるなど、アフガンの人々の生活を支える現地の事業体です。

中村哲さんが亡くなられてから3年あまり経ちました。12月に発行された会報にある現地からの報告をじっくりと読ませていただきました。新しい用水路が完成したこと、新たな用水路事業が始動したこと、8月の大洪水で補修が必要となった堰の修復工事を進めていること、政府によるワクチン接種が継続され、診療所の管轄内では全住民が接種し、コロナ感染が減っていることなどが現地から報告されています。こうした事業はタリバン政府にも認められ、関係は良好とのことです。

しかし、現地の暮らしは深刻です。報告によると、「昨年来の米国による経済制裁は解かれず、雇用機会もなく、銀行機能も未だに不十分で、日々物価が高騰し、アフガンの人々は苦しんでいます」とありました。

そんな中で、中村医師の進めた事業が、現地の人たちに引き継がれ、発展していることに大きな希望を感じます。

昨年10月11日、ジャラバード市内のガンベリ記念公園内に中村広場の完成を祝うオープニングセレモニーが行われたそうです。記念塔には、生前の中村さんのにこやかな笑顔が。

「飢えた人々に温かいパンの一切れを分かち合おうとする真心だけが、励みであり、信ずるに足りることです。生殺与奪の権を握る自然の大河は、轟々(ごうごう)と流れ、真っ白な水しぶきをあげて岩に砕け散る。それが何かを語るようです。人を欺かぬメッセージに耳を傾けます」(中村哲さんの手記より)

指揮者のいない音楽

今日は年頭に懇志を寄せていただいたご門徒さんへの受領書を作成し、その後、網代のご門徒さんに網代道場のお下がりの餅を届け、帰りにホームセンターにより、さらにその隣スーパーで買い物です。ホームセンターではおひとり、スーパーではお2人のご門徒さんとお会いし、新年のあいさつを交わしました。町内で買い物をするときは、常に知っている人はいないかとアンテナをはっています。段々と顔のわかる方が増えているということでしょうか。

午後2時からはインターネット中継で本願寺の報恩講を視聴しました。明日以降も16日まで法要は続きます。

本願寺の報恩講は雅楽が入るので、厳かな雰囲気が漂います。雅楽には指揮者がいません。演奏者同士が息をあわせて音を作っています。自分の音と相手の音が響きあうお浄土の世界を想わせるのが雅楽の素晴らしさです。

親鸞聖人は、
「清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは いつつの音声(おんじょう)いだしつつ 宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり 清浄薫(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし」との和讃を詠まれました。

宮と商とは音階のことです。西洋音楽に当てはめると宮はド、商はレです。共鳴するはずのない音同士さえ見事に調和している世界がお浄土なのですよと親鸞聖人はおっしゃっています。

雅楽の音色を聴いていると、排除や差別がなくならないシャバ世界のありようは本当じゃないんだぞと仏さまが語りかけてくださるような気がしてきます。

本願寺にて本日より報恩講です

本日9日より16日まで、西本願寺において報恩講のお勤めがあります。

報恩講は、親鸞聖人のご命日を縁とした法要です。今年は親鸞聖人御誕生850年の節目の年にあたります。
インターネット中継もありますので、お時間ある時にぜひご覧になってください。

御正忌報恩講インターネット中継ページ

私のおすすめは、13日(金)午後の音楽法要です。

11日(水)と14日(土)の午前中は、親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年を記念し、制定された作法でのお勤めになります。

画面越しにでも南無阿弥陀仏と称えていただくと、心安らかなひとときを過ごすことができると思います。

今年初めての年回法要でした

ちょうど2年前にご往生されたご門徒さんの3回忌でした。施主である息子さんが上手にお聖教を読まれたこと、自宅でのお通夜の帰り、雪の影響なのか坊守の車のバッテリーが上がって動かなくなり、ご近所のご門徒さんにSOSして助けていただいて帰宅したこと、葬儀の際に、故人様と共に職場で働いた若い方たちが来られて涙されていたことなど、懐かしく思い出しておりました。コロナ禍のなか、家族とのお別れはタブレットの画面上であったこと教えていただいたことも記憶しています。

法話のさいには、原稿を配りました。去年は配る時もあれば、配らない時もありました。今年は、5月のお寺フェスと親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年の法要の宣伝をかねて毎回配ってお話しさせて頂こうと決意しております。そのためにも1月は勉強をして、何種類かの原稿を作成したいと思います。

きょうは餅屋です

午前中、お正月のお供えの餅を切ったものをご門徒さんにお届けしました。「孫が好きで、毎朝でも食べるんです」「お正月のお餅がなくなったところです。いいんですか? いただぎす」。餅屋さん(パン屋さんでもあります)のついたお餅です。やっぱり餅は餅屋ですね。

気になる方もいらっしゃるので、お餅を渡しつつ近況を聞いたりも。「外に出たり人と話をすることもなくて、コタツにくるまって過ごしています。娘と孫のところで正月を過ごし、その時はしゃんとしていたんですけど、帰ってきて1人でいると、なかなか前向きになれなくて」。年末にも別のご門徒さんからやはり同じような内容のお話をうかがったことがあります。私は話を聞くことくらいしかできませんが、また今年もお顔を拝見するために時々おじゃましたいと思いますし、そういう関係性をもう少し広げたいと考えているところです。

西法寺通信のパズルの景品が当たった方は、「あのお箸、家族に『いいでしょー』と見せたんですよ」と。パズルの締め切りは今月末です。このブログを読んでくださっているご門徒さん、ぜひご応募ください。

ホンモノの宗教とニセモノの宗教

午前中、書き上げた過去帳を持って市内のご門徒さんのところにおじゃましました。年末の大仕事が終わり、ホッとしました。

帰ってからは、この間、全く視聴できていなかった浄土真宗のオンライン講座の追っかけ視聴を夕方まで。昨日は2時間分を、4時間分を視聴しましたが、追いつくためには、あと26時間分の視聴が必要です…。

でも、久しぶりに勉強した気分になれました。

「わがあとは称名ある処すなはちわがあとなりと仰ありけり」。親鸞聖人の師匠・法然聖人の言葉が引用されました。お墓の下にいるのではなく、みなさんが称名するところに私はいますよというお言葉です。こういうお話に触れていると、浄土教というのは本当にインパクトがあるなと思います。

ある講師さんが、「お念仏することが恥ずかしいのではない、お念仏しないことが恥ずかしい」と話されました。なかなかいえない言葉ですが、しっかりとメモさせていただきました。

こんなお話もありました。
「真実の宗教と偽物の宗教をどう分けるか? 『これを買ったら〇〇』『病気が治らないのは〇〇』といった条件、取引をするものはインチキであると思った方がいい」

これ、私もそう思います。
みなさんも参考にしてみてください。