昨日咲いた2つの蓮の花。今日の方がきれいな気がします。花びらが昨日よりも開いているような。


そして今日の朝咲いた蓮

昨日咲いた2つの蓮の花。今日の方がきれいな気がします。花びらが昨日よりも開いているような。


そして今日の朝咲いた蓮

朝咲いて

昼過ぎには少し閉じてきました。

夕方にかけてさらに閉じ、明日午前中にまた開いて。これを数日繰り返し、蓮は散っていきます。
配り物で山あいの銀山地区へ。
ひまわりが一面に咲いている畑があります。夏だなぁとふと家の方にに目をやるとサッシにネコが2匹座っています。

家と外、出入り自由のネコたちのよう。
はやく雨が止まないかなぁと外を見ているような。
ネコとヒマワリ
この数日、豪雨と蒸し暑さでまいっていましたが、いい気分で銀山から帰ってきました。
引き続き、大雨の地域の皆さんのことを案じつつ。
西法寺農園のグラジオラスが次々と咲いてくれたので、本堂はいま、グラジオラスまつりです。

春に球根を植えなおしたのですが、3分の1は2018年の因幡組の連研で、勉強仲間のYさんが、自分の畑から分けて下さったもの。サーモンピンクの優しい花色の個体で、見ると働き者で気のいいYさんの顔が浮かびます(お元気かしら)。残りは私の実家の畑からやってきたもの。これは、鮮やかな花色です。温暖な和歌山から鳥取に来ても、元気に花がつきました。

緑の蕾が葉っぱの間から出てくる時期は、まだこれが何色になるか。分かりません。ある朝、段々の形の蕾の先にポツンポツンと鮮やかな色が吹き出します。紫、黄色、オレンジ、とにかく原色なので、先日、葬儀のお供えにあがった白い菊とのコントラストが強いこと。みれば、おしべまで熱帯的な色(ネオンカラー?)をしており「君たちは、どこからきたの?」と、本堂裏で独り言です。
※インターネットで調べると、原種はアフリカや南欧で生息するようです。日本にあるのは、園芸用の種類。和名を「唐菖蒲」といい、そのほかに「オランダアヤメ」の名があります。グラジオラスは学名で、ラテン語で「小さな剣」という意味です。なるほど、葉も花も剣のようです。

並行して、水回りの大掃除も決行。先週、試験が終わったので、心の余裕ができました。山が近いせいか、なにもしなくても色んな謎の汚れがこびりつくのです。
きょうも雨がときおり強く降っています。
お盆参りの案内、西法寺通信、そして本願寺新報のお盆特集号をセットにして本日から郵送&配達です。岩井地域から東は私が、網代と田後は世話役さんに配達をお願いし、あとの地域は郵送にしようと思います。雨でなければ配達がてら岩美町の美しい風景を紹介したいところなのですが。残念です。
百ほどセットし、半分は郵送でだしました。お疲れモードなので、今日できることを明日にのばして作業は終了としましょう。
県内にコロナ警報が発令されなければお盆参りを行う予定です。お参りできるといいのですが。こればかりはなんとも言えません。
さて、お寺の境内の蓮は、次々に咲きそうです。

葬儀を終えて市内から岩美町に帰る途中、前が見えないほどの大雨に見舞われ、ゆっくり車を走らせて帰ってきました。ちょっと怖かったです。
お寺の前の溝も大変な水量です。ここで暮らしていると思われるカニさんも、これはたまらんと出てきました。小さないのちにとってこの豪雨は脅威でしょう。

岩井を流れる蒲生川もこの通りの濁流です。

まだ雨は続くようです。みなさん十分に注意して過ごしましょう。
きょうは朝から葬儀を勤め先ほどお寺に。鳥取は車を運転するのも怖いような大雨でした。市内を流れる千代川の水は濁流のようで、水位もかなりのものでした。
うちのお寺は山のふもとにあります。この数年、決まって年に何回か大雨が降ります。災害への備えを進めなければならないと感じているところです。
この雨の中、本願寺よりお盆特集の新聞が届きました。これに西法寺通信、お盆参りの案内を加えて全てのご門徒さんにこれから届けていきます。

新聞、さっそく一読しましたが、買ってよかったと思える内容です。編集の方々、いい仕事されてます。
今日明日は通夜と葬儀がつづきます。大雨にも気をつけつつお勤めさせていただきます。
今日から明後日にかけて通夜、葬儀、通夜、葬儀と続きます。葬儀は日常の生活を停止して、亡き人について、死について、生について考えさせられる時間です。
人の生を うくるはかたく
やがて 死すべきものの
いま いのちあるは
ありがたし
『法句経』の一節です。
あることの難しいいのちを与えられたあなたは、どのように生きていますか、どのように生きていくのですか。
葬儀はいつもそのことを問いかけてくれます。

今日ご往生された方のご自宅で臨終勤行をつとめました。『阿弥陀経』を読んでいる最中からネコが鳴いています。飼っているのかなとお尋ねしたところ、「母がエサをやっていた野良猫なんです」とのこと。エサが欲しいのでしょうが、私はネコも受け念仏を称えてくれているのかな、別れを悲しんでいるのかなと思って聞いていました。
以前にも網代のお墓でお経を読んでいた時、ニャアニャアと節々で鳴くネコがいました。今日よく使うウケるとは、僧侶の説法を「なんまんだふ」と受け念仏することからきた言葉だとブログに書いたことがあります。
お経を読み終わり、在りし日の姿をご家族からうかがって帰ろうとすると、近所のご門徒さんが線香をあげるために来られました。雨のなか、少しのあいだ立ち話に。その方とお会いするのも久しぶりです。こういうことを、亡き方のお導きだなぁと思えるようになりました。
今日では健康と若さ、長生きを幸福、老病死は不幸なことと遠ざけようとしています。亡くなられても葬儀をしないという方も増えています。一方で、儀式をすることで人は人としての心を育ててきたといわれます。
葬儀とはなんのためにつとめるのかと、葬儀のたびに考えさせられます。
死というのは私の思い通りにはいきません。そのことを受け止めたとき、なぜ人に生まれたのか、生きることには何の意味があるのか考えさせられる機縁にもなると思います。悲しみを体験しないと見えて来ないことがあります。死を考え、人生をよりよく生きるための大切な教えの場、それが葬儀ではないでしょうか。
自分に今できる精一杯のお勤めをさせていただきます。
合掌
おばたんがおうちにいないまま、ふたつねんねしました。

おおきなおかばんだったので、
「あたいもはいれるよ」と、みせたけど、
「あんたは、じたくけいびいんなんだから、おうちをはなれたら、こまるわよ」
と、おしごとをもらいました。

おいたんが、おやつをくれたり、シマちゃんが、おかって口でおひるねにきてくれて、おばたんがいなくても、たのしかったわ。

きょうは、おばたんがかえるまで、起きてまっておきます。