今日の13回忌の法事に百歳近い女性の方がお参りでした。普段は横になっていることがほとんどと息子さんは話していましたが、亡きご主人の法事にきてくださったのです。
法事の最中はなんまんだぶ、なんまんだぶ、と口ずさんでおられました。
帰り際、前住職が挨拶すると、「どなたですか?」と。
ですです。そんなことは忘れるものです。
でも決して忘れないのは、なんまんだぶ。
大事なことを教えていただきました。
今日の13回忌の法事に百歳近い女性の方がお参りでした。普段は横になっていることがほとんどと息子さんは話していましたが、亡きご主人の法事にきてくださったのです。
法事の最中はなんまんだぶ、なんまんだぶ、と口ずさんでおられました。
帰り際、前住職が挨拶すると、「どなたですか?」と。
ですです。そんなことは忘れるものです。
でも決して忘れないのは、なんまんだぶ。
大事なことを教えていただきました。
すごい湿気ですね。もう数日もすれば、頭からエノキダケが生えそうなお天気です。
(と、言いつつ、そんな昔話があっとなあ、と思い出します。頭に柿の木が生えて、それを抜いたら池が出来、埋め立てたらキノコが生えた男の話…)
余談はさておき、
寺から徒歩30秒ほどの家に住まう我々ですが、庭のコントロールがなかなかできません。
東京時代はマンション暮らしのベランダーで、庭のある生活は、初めて。剪定や草引きをご近所さんにも教わりながら、やっているところです。
5月の連休に思い切って中庭の手水鉢まわりをスッキリさせたのですが、土の部分にツルニチニチソウを植え、苔も張って水中にはメダカや水生植物を投入し…と、緑を加えたところ、3カ月で増殖しました。
ビフォーアフターがすごい。
特にこの間の長雨で、色んな雑草がめざましく伸長し、コケが見えなくなりました。水生植物も、ランナーを伸ばし、玉砂利にも根を張るつもりのようです。なんという生命力!個人的にはジャングル状態も好きなのですが…引き算の美しさも楽しまねばなりません。
雨が弱くなったら、せめてコケが見える程度に、草引きしようかと思います。
通販で組み立て式マガジンラックを購入し、書籍コーナーをつくりました。
仏教の入門書、仏教を題材にしたコミック本などを並べてみました。
並べてみるとかなりありました。
西法寺は気軽によっていただけるようなお寺ではなく、法事のとき以外は実に静かなものです。
本を並べたからといって何か変わるわけではありませんが、寺も居場所の一つにしていただくための半歩といったところです。
22日には、60代の方たちに集まっていただいて知恵を出し合う場をもちます。
その報告は後日また。
朝からひどい雨降りでした。週一の日課である網代道場に行きましたが、外仕事は不可能で早々に退散しました。
お釈迦さんは雨の時期、お弟子さんたちとこもって修行をされたとか。これを安居といいます。
昨年は本山の宗学院別科というところで週に1回、勉強ができましたが、ことしは受講していないので、強制的に勉強することができません。
これではいけないとひとり安居をはじめました。
今手にしているのは、
1冊目は、麻田弘潤さんの『気になる仏教語辞典』
麻田さんの本は、可愛いイラスト満載、テキストも短くよみやすい。
2冊目は、小熊英二さんの『私たちの国で起きていること』
小熊英二さんの本にこんな言葉がありました。
「人が他者を思い、結びつくこと。そこからしか、政治と民主主義の再生もはじまらない」。
仏教もまたそうだと思います。忘れないようにメモしなきゃ。
日本宗教者平和協議会が発行している「宗教と平和」という機関紙(7月号)に次のような話がでていた。
この4月に全国霊感商法対策弁護士連絡会が集会を開いたという。この団体は、統一教会(家庭連合に改称)による霊感商法の被害救済とその根絶のために働く弁護士の集団だ。
統一教会のみならず、一般にカルトとよばれるスピリチュアル集団の被害にも対応しているそうだ。
霊感商法の手口はこうだ。
「このままでは不幸に見舞われる」
「先祖が地獄で苦しんでいる」と不安をあおり、高額の印鑑や数珠、仏像、絵画などを買わせる。それを入り口にマインドコントロールの状態にして入信させる。
弁護士らが会を立ち上げ32年、受けた被害相談は34000件、金額にして1213億円にも。昨年は一件で10億円を超える相談もあったという。
彼らは正体を隠して接近するので、偽装組織がいくつもある。週刊ダイヤモンドによると、統一教会は年間600億円近くを集め、その半分を韓国の本部に送金しているという。
政権の中枢部にいるような自民党の国会議員のなかにも、統一教会と親密な議員がいるそうだ。
何かおかしいな、と思ったら、まずは弁護士さんたちに相談を。
先日、五十歳になりました。
寿命が長くなった今日ですが、何が起こるかわからないのですから、健康には留意しなければと思います。
かつて織田信長が桶狭間の戦を前に、平敦盛の「人間五十年、下天のうちにくらぶれば夢まぼろしのごとくなり」を舞ったという有名な話があります。
下天とはなにか。
昔の宇宙観では、須弥山という高い山が宇宙の中心にあると考えられていました。その中腹に下天というところがあり、ここの1日は人間界の五十年に相当するというのです。
つまり、人間の五十年は、長い時のなかで見れば一瞬であり、はかないものということなのでしょう。
敦盛にかえります。
源平の合戦で16歳の敦盛を討ち取ったのは熊谷直実です。深く悔いた直実はその後、どうしたか。
直実は深い後悔と苦しみのなか京都吉水に法然聖人を訪ね、阿弥陀仏の教えに出遇い、念仏者として全く違った人生を歩むことになります。
直実のように劇的な出遇いではありませんが、せっかく出遇った仏教の教えです。夢まぼろしにならないよう、地に足をつけた1年にしなければと思うのでありました。
坊守です。
今日は海の日にふさわしい晴天でした。では来週日曜は何の日でしょうか?
参議院選挙の投票日ですね。
この週末は、メディア各社が選挙情勢を報じていました。
気になったことのひとつが、選挙への関心の低さ。投票率が5割台だった前回の国政選挙よりも「関心あり」の回答は下がっており、このままだと投票率も低いかもしれません。
議会制民主主義の国で、国民が投票に行かないことが何を意味するか、少し考える必要があると思います。
こんなデータを見ました。ここ10年ですべての有権者の何割が、いま政権にいる政党(与党と呼ばれます)に投票したのか? という数字です。
何割だと思いますか?
…はい、毎回2割に届いていません。それでも国会の議席は与党が6割以上を占めておられるのです。
(ミラクル〜)
投票率の低さがこの結果を叩き出しています。行かん人多めで、残った人たちだけで投票を行うと、こんな結果になるんですね。
支持政党のある人から無党派まで、どんな立場から見ても、フェアじゃない。
「自分とは感覚や意見の違う議員が多い。政治は遠い。キョーミない」と考えて、選挙に行かない選択をすると、ますます政治が遠くなりそうだな、と思いました。
また、メディアにも注文はあります。各党の獲得議席の予想より、どんなことが今の国政で問われているのか?読者や視聴者に投げかけるニュースがもっと欲しいです。最初から結果の分かった試合なんて、参加する気になりにくいですから。
日本で普通選挙が行われたのは1925年、まだ100年も経っていません。女性が選挙権を得たのは戦後で、さらに最近の話です。せっかく得た権利ですから、使いましょう。
わたしも一生懸命考えて、投票に行きます。あたたかい心と冷静な頭脳をもった人(慈悲と智慧…)が、ひとりでも多く出てほしい。
とりあえず先週から、愛車のお尻にこんなワッペンを付けて走っています。
毎日暗くなってから帰るような1週間を経ての連休、明るいところであちこちを見ると、
蓮やヒマワリが咲き始めていたり、咲いたのも知らず、すでに咲き終わった(!)ものまであり、植物の変化に驚かされました。
しかし、何より大きかったのは、雑草の伸び方でありました。
小雨の中、住職が草刈機を稼働させて、あちこちすっきりさせました。ヒマワリやキクや皇帝ダリアが間違えて刈られないか、傍で見ているうちに、電動の刃に倒されていくヤブカラシやヨモギの葉がかわいそうにも思えてきました。
雑草にもそれぞれ名前があります。雑草とそうでない植物とを仕分けているのは誰?
いつか、寺の花をいける時、雑草と呼ばれているものたちをメインに入れてみたい、と思うのでした。
(坊守)
境内で蓮の花が咲いています。
最近は向日葵の開花のことをあげてきましたが、仏教で花といえば、やっぱり蓮の花です。
親鸞聖人の『入出二門偈』という著書のなかに、
「煩悩をそなえた凡夫が、仏の本願のはたらきによって信心を得る。この人はただの愚かな凡夫ではなく、泥の中に咲く白い蓮の花のような人なのである」とあります。
これは、中国の善導大師の教えを親鸞聖人が紹介したくだりです。
どんなにおろかな私であっても、仏がこれで必ず救うぞと願いをこめた念仏=南無阿弥陀仏ををとなえつつ生きる人(念仏者)は、泥沼に咲く美しい蓮のような存在である、そんな意味になると思います。
ひとことでいうならば、念仏者は蓮の花であるということでしょう。そう思っていただいて蓮の花を見ると、もしかしたら念仏がでてくるかも?
それは冗談として、蓮はいまが見頃です。みなさんのお近くのお寺にあれば是非、観賞にお出かけください。
お寺の畑で一輪目のひまわりが開花しました。向日葵の名前の通りに太陽に向かって咲いています。
昨日は納骨のお勤めがあり、あらためてお墓について考えさせられました。
ちょうど古本で購入した『いまどきの納骨堂』を読み始めたところです。
墓はあっても、あとを守っていく人がいないという悩みを多くの方がお持ちです。墓じまいがふえているのも当然でしょう。一方で、入る墓がないという方、墓じまいされた方の納骨の先として納骨堂の必要性が増しているのもうなづけます。
先祖累代のお墓を守っていく形がとれればそれもよしですが、お墓は納骨堂に形を変えつつあります。
亡くなられた方のご遺骨を一緒に埋葬する共同墓のような形もいいのではと思います。自分の死後のためにお金を残せる人ばかりでもないし、みんないっしょに仏さんになって生きる私たちを支えてくれているというお墓がもっとあっていいのでは。浄土真宗にはそういうお墓が似合うと思うのですが。
いずれにせよ、これからのお墓について、お寺にできることについて門信徒のみなさんとよく話し合っていかなければなりません。