報恩講1日目

本日、肌寒いなか報恩講のお勤めです。25人がお参りでした。

講師は出雲・覚専寺住職の佐々木俊教さんです。

人の噂話は嘘でも面白いのに、自分のことは本当でも腹が立ちます。そのお粗末な、お恥ずかしい私を見つめ、生きていかなければなりません。その私に、自他平等の仏さんの慈悲が届いている。だからこそ仏さんの真似事であってもさせていただく生き方を歩みましょう。

老いて死ななければならない道を私たちは歩んでいます。生死出ずべき道がどこにあるのか、苦とどのように向き合って生きるのか、親鸞聖人の生涯から聞いていきましょう。

熱のこもったお話しでした。

お昼のお斎をみなさんといただきました。

報恩講の準備中

あすから3日間、西法寺の報恩講です。ただ今、その準備中。

普段とお飾りも違います。蝋燭立と花瓶が2つずつとなります。写真ではまだそうなっておりませんが。

15日は午前9時45分から。お昼を挟んで3時までです。16日午前9時半から網代道場、17日午後1時半から田後薬師堂とつづきます。

5月に植えた皇帝ダリアが報恩講を前にして、ついに開花しました。

マンツーマンの法事

本日、お一人でお参りの方と法事でした。土日は仕事が休めず、平日しかお参りできないのでとのこと。ことし2人目となるお一人でのお参りです。

実は私の立場からいうと少人数の方が落ち着いてできます。30人くらいいらっしゃると集中できなくなる方もいて、それが前からわかるので結構焦るのです。

今日の方は、「私は信心がないので」とおっしゃいます。浄土真宗の信心は、私が頑張ってそのお手柄で得るものでなく、阿弥陀さんの一方的な働きです。

死ぬまでむさぼり、怒り、愚かさから離れられない私に南無阿弥陀仏の念仏を授け、必ず救うと私たちによびかけつづける仏さんです。

自分を見つめ、どこかで思い至ると、あれはだめ、これは敵などと自分は垣根を作って生きているんだなあと気がつかされるのではありませんか。私を見捨てず、呼び続け、呼び覚ましてくれる如来様がおられたのだと目が覚める。これが信心であり、だからこそ賜ったものなんです。そんなことをホワイトボードも使ってお話ししました。

「それって私のためにあるような教えですね」とお参りの方がそうおっしゃいました。

明日ありと思う心のあだ桜

報恩講でお話しする内容を、昨日から引き続き考えています。
今日は、幼少の頃からの親鸞聖人の生涯について本で調べていました。

明日ありと 思う心のあだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは

親鸞聖人(1173-1263)が9歳で出家した際、詠んだと伝えられている詩です。

「もう今日は遅いから、明日にしてはどうか」との声に、「明日もまた咲いていると思っている桜であっても、夜中に嵐でも吹けば散ってしまう」と返答し得度を済ませたというエピソードです。

そういえば最近、桜が何かと話題ですね。

「明日ありと 思う心のあだ桜」

親鸞聖人は、あすいのちがあるかどうかわからない、だから今日、出家したいという思いを詠ったのでしょう。

安倍首相の場合は、あす(来年)も政権があると思うから、桜を見る会の予算を3倍にまでしようとしているのでしょうか。

こんなことを考えていると仕事がはかどりませんね(苦笑)

報恩講にむけて

15日から17日まで、西法寺の報恩講があります。

15日、16日は講師の方が法話をします。

17日は、私が法話を勤めることになっています。
約50分ほど、親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」について話そうと思っています。先週は忙しくて手がつけられず、ようやく本日から準備に取り掛かりました。

2017年にお世話になった中央仏教学院では、毎週、「正信念仏偈」の講義がありました。午前中、先生からいただいた資料とノートを引っ張り出して眺めていました。

懐かしさとともに、先生からいただいた資料のありがたいことといったら。

わからないことだらけだったので、先生が話されることを詳しくメモしていたことが、読み返してみてわかりました。

「信を得たからといって、私がすっかりかわって仏のような人間になるのではない。しかし、聖人御消息にあるように、如来の本願を信じ、お念仏を申す身となった人は、それまでの自己中心的な思いを自省し、そういう心を捨てようと心がけるのが当然の態度である。本性をかえることはできないが、人間として正しく生きていこうとするのが、念仏者の姿勢である」

報恩の「恩」とは、私のためにしてくださったことを自覚する。「報」とは、恩を返すことはできないので、次の方たちに報せること。そのように受け止めています。

先生方からいただいた恩をありがたく思い、できる限り、自分のことばでお伝えできるようにしたいと思います。

本堂の「壁新聞」更新

坊守です。
昨日の掃除でピカピカになった本堂の壁新聞を更新しました。


門徒さん宅には、寺報をお届けできますが、法事でお参りにみえる方々にも取り組みをお知らせできるかな?と、夏以降、掲示しています。雰囲気程度ですが。
先日は「ボクだ!」と、夏のお習字寺子屋に参加した小学生が壁新聞を見て叫んだので、その1枚をはがして持ち帰ってもらうことにもなりました。

午前中、住職が法事をお勤めさせていただいている間に、ソファの部屋で、電気ストーブをつけて(お寺は冷えます)作業していたのですが、本堂から、ぐずり出した赤ちゃんとママ、いとこのおねえちゃんが抜けてきたので、休んでいてもらうことにしました。
集会室周辺も少し居心地よくしたので、小さいお子さん連れでも、不安なくお寺に来ていただきたいと思います。

お寺そうじ、そして虹がかかる

午後、総勢15人でお寺の大掃除をしました。

仏具をみがき、見違えるほどきれいになりました。「香炉が元の色になった」と前住職もおどろいていました。

はじめて仏具みがきをされた方も、「目に見えてきれいになるので、やりがいがある」

本堂の戸もていねいに拭いていただきました。すでに大量発生しているカメムシを取り除きつつ・・・。

掃除が終わり、一雨降って、虹が掛かりました。

みなさん、ありがとうございました。

柚子の大馬鹿18年


庭に柚子の木があります。たいした手入れもしていませんが、以前住んでいた方の手入れのお陰で今年も数十個、実をつけています。


「桃栗3年、柿8年」の次は「柚子の大馬鹿18年」だそうです。柚子は実をつけるまで長い年月がかかるということなのでしょう。


昨日、東京に住んでいた頃の友人から、「仏門に入って3年ですね」というメールが届きました。お寺に帰ろうと決めてもうすぐ3年になるのかぁと気がつかされました。


桃栗のようにはいきません。柚子のように歩んでいきたいと思います。

わけもんをいただく

解禁となったズワイガニです。これはメスのカニで、山陰では親ガニと呼びます。味噌汁にするとおいしいのです。オスは松葉ガニと呼びます。

網代のご門徒さんのところに用事があってうかがうと、「わけもんですが、どうぞ」とのことでありがたく頂戴してきました。

「なんでわけもんっていうかは知らんだが。昔からそういうだが」とのこと。

分け合う、お裾分け、分け前?

集落を歩くとあちこちのお宅からカニのにおいがします。わけもんをいただいたご家庭が多いのでしょう。ニオイもいいのですが、そういう付き合いが生きていることがなによりいいなあと思いつつ歩きました。

カニは我々に食べられるために生きているわけではありません。それだけに粗末にせず、感謝することが大切であると思います。

多くのいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうを恵まれました。深くご恩をよろこびありがたくいただきます。

紅葉シーズンですが

先日、ご門徒さんの庭先で「この数年、庭木が紅葉しないで散ってゆく。気候がおかしくなってる」という話を聞きました。

そう言われてみると、山の紅葉が気のせいか遅いような。いや気のせいではなく、2050年にはクリスマスの頃が紅葉の時期になるそうです。

きょうの朝、NHKBSの世界のニュースをつけていたら、米トランプ大統領がパリ協定からの離脱を正式通告したことが報じられていました。米企業にとって不利益だからというのがその理由です。


しかし、アメリカというのはおもしろい国で、人口の過半数にあたる25の州・自治州でパリ協定の目標達成に向けて動き始めています。
アメリカの目標は、2025年までに、2005年比で、温室効果ガス排出量を26~28%削減し、28%削減へ向けて最大限の努力をするというものです。

トランプさんの発言にふれて、二人の偉人のことばが頭にうかびました。

“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。カール・マルクス
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。ブッダ

欲を少なく、足るを知るという考え方が仏教にはあります。それができないのも人ですが、開き直って欲に走れば、地球の未来さえ壊しかねないところに至っているという自覚が必要な段階にきていると思います。