
「地に空に平和を」
湯川秀樹博士のことばです。

「地に空に平和を」
湯川秀樹博士のことばです。
仏教婦人会の研修会に参加しました。ビギナーなので、相変わらず変な緊張をしながらの参加でしたが、学びの時間は楽しいです。
職業別の長生きランキング1位は僧侶であり、お経をあげることが体にいいらしい、という話題(組長サマ談)や、香川県の法事には必ずうどんが出るので、1日何軒もまわるとお坊さんの口からうどんが出そうになる(講師サマ談)など、雑学も増えましたが…
今日の学びの主題は、
「念仏者の生き方」と「私たちのちかい」について、でした。
講師は香川真二先生。私には、中央仏教学院の先生だ、という存在ですが、本願寺の総合研究所の方です。
「念仏者の生き方」は2016年10月に専如門主が発出した(お寺でも発出というか分かりませんが)ご親教、
そしてその2年後に、ご親教を凝縮してわかりよくした「私たちのちかい」が2018年に出ました。
阿弥陀さんの救いに出会えた人たちの生き方にふれた今回のような親教はいままで無かったそうです。
その内容を、午前・午後をかけて、ていねいに語っていただきました。
「私たちのちかい」は四カ条だが、要は3番目の
【自分だけを大事にすることなく、
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように】
という項なんだそうです。
「自他共に生きる」ことを、あらゆるものが関連し変化しながら在る、という仏教の世界観と、分け隔てなく注がれる仏さんの「慈悲」という教えをベースに学べました。
とったメモはノート11ページ分(!)ブログに書くのは読者への嫌がらせでしかない!
ということで、講義終わりに浮かんだ言葉を記します。
「『念仏者は、他者と共に生きるべく、リアル社会で勝負していこう』ってことやな」
家に帰って「研修はどうだった?」と住職が尋ねてきたので、
「『私たちのちかい』をお寺に張り出そうよ」と提案して、実践の最初の一歩としたいと思います。

梅が咲いてしまいました。気候変動へのアクションも、念仏者に問われることのひとつだろうなあ
昨日からの冷え込みで鳥取と兵庫の県境の蒲生峠も、わずかにですが雪景色です。

今日で1月も終わりです。大晦日の除夜の鐘、そして年が明けての元旦会(がんたんえ)、2日の修正会(しゅしょうえ)、あいさつまわり、年忌法要に葬儀、役員会と年頭からさまざまなことがありました。ブログもなんとか連日更新することができました。ウチにやってきてくれたネコのナモも一度病院に行って以降、元気に過ごしています。

2月は閏年ですね。なんでもローマ時代から始まったそうです。地球は太陽の周りを365日かけて回っていますが、約6時間ほど実は足りない。そこで4年に1度、1日増やして調整しているのだそうです。時間を正確に知ろうとした先人たちの苦労がしのばれます。
ずいぶん前の話ですが、フリーターの方から「2月は嫌い」と言われたことがあります。なぜなら「働く日数が少なくなると給与がそれだけ減るから」とのこと。月給で生活していた私にはわからない苦労なのだなと思ったものです。意味は違いますが、「時は金なり」です。
「時は金なり」の本当の意味は、「時間を有意義に使おう」ということ。あっという間に過ぎていった1月を振り返りつつ、明日からの2月もボッとする時間は大切にしつつも、時を無駄にしないで過ごしたいなと思います。
冷たい雨が降りしきる1日でした。
今日は午前中に50回忌のお参りがありました。故人がお亡くなりになってから丸49年となりますので、法事をしていただくこと自体が尊いことです。
若い方もお見えでした。当然、50年前にご往生された曽祖父のことは知りません。もしかしたらご法事がなければお名前を知らないままに過ごしていたかもしれません。祖父・祖母までの記憶はあっても、それ以前については名前もよく知らないという方もいらっしゃると思います。
私につながるいのちを10代までさかのぼってみると1024人の方がいるそうです。単純な計算ですからその通りではならないかもしれませんが、そう考える無数のいのちに支えられて今の私がある、ということがわかります。
とにもかくにも、私のところまでいのちが巡ってきたことに深く感謝する日が50回忌ではないでしょうか。
ポーランド南部のアウシュビッツ収容所跡地で27日行われた解放75周年記念式典で、生存者として証言を行った歴史家のマリアン・トゥルスキ氏のスピーチを読みました。同収容所ではナチスが110万人ものユダヤ人を虐殺しました。
Marian Turski(マリアン・トゥルスキ)氏のスピーチ – アウシュヴィッツ解放75周年式典より
「歴史に関わる嘘を見た時、無関心にならないでください。過去が現在の政治の材料へと曲げられている時、無関心にならないでください。少数派が差別されている時、無関心にならないでください。民主主義の本質は多数派が支配することですが、民主主義とは同時に少数派の権利が守られていなければならないということです。権力が既に存在する社会契約を侵そうとする時、無関心にならないでください。この戒めを守ってください。11番目の戒めです。「無関心であってはなりません」
「もし無関心であるならば、私たちの上に、私たちの子供の上にアウシュヴィッツが急に降ってくることに気が付きもしないでしょう」
十戒に「無関心であってはならない」を加えるべきとスピーチを結んだトゥルスキ氏。彼の指摘は、そのまま今の日本社会にも当てはまることだと思います。
首都圏でも雪が降ったとのこと。数年前、東京にいた頃ですが、関東・甲信越で大雪が降り、出勤時には雪が川のように流れ、ずぶ濡れになって出勤したことがありました。
もう1月も下旬です。確定申告の時期が近づいてきました。
お寺(宗教法人)に対しては、所得税・法人税などはかかりません。もうけを目的としていないからです。営利事業をした場合は、課税の対象となります。
お寺から僧侶が給与を支給する場合は、もちろん税を納めなければなりません。
勤め人をしていた頃は、担当の方が年末調整で一手にしていただいていたので、ラクだったのですが、僧侶は自営業者ですので、個人で確定申告をする必要があります。昨年は見習い期間で扶養家族でしたから、今年初めて自分で確定申告することになりました。
インターネットでも申告できるようになっているので、便利といえば便利です。
所得税、住民税、健康保険料が確定申告によって確定します。課税所得が少なくなると住民税や健康保険料が減免されます。災害にあった方、医療費を多く支払った方、ふるさと納税や政党などに寄付金をした場合は確定申告をすると納め過ぎた税が戻ってくることがあります。
ちなみに、マイナンバーは記入しなくても受け付けてくれます。罰則もありません。
個人で申告するのは煩雑ではありますが、納める税金が一体何に使われるのか、興味も湧いてくる気がしますね。
米科学誌『プレティン・ジ・アトミック・サイエンティスツ』が「終末時計」を発表し、世界滅亡を表す午前零時まで「残り100秒」と設定したとニュースが報じていました。1947年の設定以来、史上最短ということです。
その理由は、核兵器と地球温暖化がもたらす脅威が進んでいること。
いずれも、政治と社会のあり方が鋭く問われる問題です。
「阿弥陀経』、そして親鸞聖人が書いた「正信偈」に五濁悪世との言葉が出てきます。
五濁とは、①劫濁(こうじょく)、②見濁(けんじょく)、③煩悩濁(ぼんのうじょく)、④衆生濁(しゅじょうじょく)、⑤命濁(みょうじょく)の五つです。
劫濁とは、時代の汚れです。飢餓・戦争、そして今日では地球温暖化もそれ当たると思います。見濁とは、人々の考え方の汚れです。世界中で対立と分断を煽る論調が溢れています。煩悩濁とは、欲望、憎しみ、自己中心的な考え方がはびこることです。衆生濁とは、人々の資質が衰えることです。命濁とは、いのちが軽んじられることです。
2017年12月、「ニューヨークタイムズ」に1面を使って親鸞聖人の思想に賛同したエッセイが掲載されたことがあります。タイトルは「暗黒の世界には汚れた手が善をなす」。この話題を紹介された浄土真宗本願寺派勧学の徳永一道氏は、「現代は『自分が正しい』ということばかり言いつのっている。しかし、私は汚れた手しか持っていないという自覚によってしか世界は救われないと言っているのではないでしょうか。ここでは『罪悪深重』という宗祖(親鸞聖人のこと)の人間観がそのまま肯定され認められている」(『仏教LIFE〜宗学院論集別冊』41ページ)
こういう自覚でしか世界は救えない、そう浄土真宗の関係者ではないアメリカの研究者の方が言ってくださっています。
終末時計を進めるのも、食い止めるのも人間です。進める側でなく、食い止める側で頑張らないと!
坊守です。
職場の集団づくりにかかわる講演を昨日、聴いてきました。
大勢の集団になればなるほど、まとまるのがたいへんになるけれど、リーダーがいちばんにやるべきことは、その集団の関係づくり。そこがうまくいくと、おのずと良い仕事ができるようになる。
「ここは、なにを言っても大丈夫な場」だと、メンバーの安心をつくるために、リーダーは自分の弱みや悩みを率直に出す(自己開示)と良い。
人間は多面的な存在だから、ひとりひとりの話を聴こう。人間の口は1つだけど耳は2つついているのだから…
などなど、チームづくりのヒントがたくさんありました。
そして、あっ!
とおもったのは「理念」をどう受け止めるか、という話。
理念とは、たとえば、わたしの職場の理念のひとつは「無差別・平等の医療介護」をめざすことですが…講師は理念を「きれいごと」と表現されたのです。一瞬ヒヤッとしました。
でも、現実と照らせば、本来はどんな人にも等しくあるべき医療や介護は、経済力や居住地域、人脈などで大きく差が生じてしまっている。
その「きれいごと」があるからこそ、現実に慣れ、あきらめてしまわずに、自己や組織の姿勢や在り方を問い続けることができるんだ、ということでした。
あっ!とおもったのは、これは仏教の教えへの向き合い方にも共通するものがある、と思ったからです。
ウチの住職、しばしばこのブログで、
阿弥陀さんにみまもられ、必ず救うぞ、と呼びかけてもらっているしあわせを、他者にも向けていきませう、
といった真面目な締めコメをしますがこれは、優等生ぶっているわけではなく、仏法のめざすものと現実のギャップはあるけど、あきらめない、という姿勢を表明していたわけです。
わたしも「きれいごと」にこだわっていこうと思います
きょうは四十九日の法要と納骨が二つありました。暖冬とはいえ海辺は北風が強く、冬場に外はさすがに寒かったです。みなさん凍えながらの納骨でした。
法要では、やなせたかしさんの著書を紹介しました。
僕らはみんな生きている。生きているから悲しいんだ。
歌い継がれる『手のひらに太陽を』の1番の歌詞は、悲しいから始まります。やなせさんはその理由を著書でこう記しています。
「生きてなきゃ『かなしい』という気持ちになることもないんですね。そして、かなしみがあるから喜びがある。悲喜こもごもと言うでしょ。喜悲こもごもとは言わない。かなしみがあって、喜びがある。しかし、かなしいっていうのは、ただ涙を流してっていうことではなしに、いずれ我々は死ぬ、愛別離苦のこの世界にいるわけなんです。ですから『かなしい』ほうを先にした。それで二番は『うれしい』に。ようは悲喜こもごもに合わせたんです」(『何のためにうまれてきたの?——希望のありか』(PHP研究所2013年 68ページ)
別れの悲しみを体験することは、出会えたうれしさを深く知ることにもつながるのでは。やなせさんの著書からそのように学ばせていただきました。
12月初旬に雪が少し積もった以降、雪が降りません。庭の梅に目をやれば、もう梅のつぼみが!

先日のニュースでは、例年雪が積もる鳥取砂丘も積雪ゼロで、この時期の強い北風に砂が飛ばされて駐車場が砂だらけとなり、撤去に苦慮しているとありました。
近くのホームセンターも、昨年は置いてあった一人で動かせる除雪車の販売スペースは縮小され、袋菓子の売り場となっていました。
2年続けてほぼ雪のない山陰。きょうはあまり寒さを感じない雨模様。スノータイヤが必要でない地域に、まさかなったりはしないと思うのですが、ちょっと考えられない状況です。