学ぶとはまねること

最近、過去帳への記載をお願いされることが増えてきました。なかなか上達しないので心苦しいところですが筆をとっています。

過去帳には、法名、俗名、ご往生された日、行年などを記載します。

過去帳は見台にのせて仏壇に飾ります。小さなものですから、必然的に小さな文字で書くことに。これがなかなか難しい。私は筆圧が強く、コントロールも上手くないので、いちばん細いタイプの筆ペンもしくは、小筆の穂先を少しだけおろしたもので書くようにしています。

いつも手本にしているのは、中央仏教学院時代に習字の先生が配布してくれたお手本です。写真以外にも、過去帳サイズで書いたさまざまな漢字のお手本を配ってくれました。まじめな話、こんなに何度も見返すプリントは、このお手本だけです。

学ぶとはまねること。いつの日にか、少しでも近づけるといいのですが…。

四十九日をお勤めして

午前は四十九日の法要、そのあと納骨でした。

お墓は網代の墓地のいちばん上の方。

息を切らせて登った先でした。うっすらとみえる砂地は鳥取砂丘です。見晴らしは最高ですが、高齢の方にはきびしい環境です。

納骨された方は元漁師さんです。奥様も網代出身。この港から何度も何度も漁場に向かわれたことでしょう。

値遇(ちぐ)ということばがあります。値はぴったりとあう、遇には予期しなかったけれどもめぐりあうという意味があります。仏縁にめぐりあうことを意味しますが、人間関係に置き換えてみても、こういう出会いが人生のなかであれば、それは大きな支えになると思います。

葬儀がおわり毎週自宅にうかがって、いっしょにお経読み、ご主人との思い出をきかせていただきました。近いところに住んでいたもの同士なのに、縁あってめぐりあわれたのだなあとしみじみと思いました。

今日の法事で、奥様は大きな声でお経を読んでおられました。通夜の時も葬儀の時も、毎週のお勤めでもそうであったように。

四十九日までの期間に念仏者としても大先輩の姿にふれることができ、本当に学ばされました。別れの寂しさはすぐに癒えるものではないと思いますが、どうか身体に気をつけてお元気にお過ごし下さい。

一世帯あたりマスク2枚?!

坊守です。
新年度を迎えましたが、世界中をめぐっている新型コロナウイルス感染症の問題がアタマから離れません。
国連は、第二次世界大戦以来の事態だと言い切り、日本の医師会は医療危機の非常事態を発信する、たいへんな局面です。

なのに、昨夜、
ちょっと目覚めてスマホに目をやったところ、
日本政府が1世帯あたり2枚の布マスクを郵送するとのニュースが話題になっているではありませんか。悪夢でもエイプリルフールでもありませんでした。ここ数年で最大の情けなさを感じました。

人類は未体験の脅威とのたたかいをしているのですから、できることはなんでもやるべきだと思います。だが、これに我々があずけた税金を何十億も使いますのんか?!と。他の国にできることが、なぜウチの国ではできないんだろう。

実は数日前から、各地で医療や介護の事業所にいる知人、友人から「職場に国から布マスクが送られてきた」ときいていました。50人以上のスタッフがいる介護施設に5枚、人員がもっと少ない施設に10枚…どういうことだろう? 政府、大丈夫か?となっていました。

当該のウイルスを世界から叩き出すことはできなくても、犠牲を大きくするか小さくするかは、社会次第であることは、これまでの疫病や自然災害の経験からも明らかです。

人災みたいな政治は、ホンマ困ります。

この国の構成員の1人として、何ができるか「アホくさい」と投げ出さず、考え続けたいと思います。

お寺の掲示板(4月)

「一寸先は光」

アンパンマンの作者・やなせたかしさんの言葉です。

一寸先は闇でも、
その一寸先には
光がある。

やなせたかし著『明日をひらく言葉」より

「人間は明日のことはわからない。明日のことどころか、一瞬先のことさえわからない」
「みんなは『一寸先は闇』だなんて言うけれど、『一寸先は光』かもしれないのだ」「やることなすこと、すべて思いどおりにいかないとき、ともすれば、私たちはすてばちになりがちだ。でも、そこでちょっと踏みこたえてほしい」

「絶望したとしても、必ずまたいいことがあります」
「絶望の隣には、希望がそっと座っている」
「立ち直ろうとする自分が、涙のなかから生まれてくるのです」

やなせさんの言葉をかみしめるように読みました。

今コロナウイルスとのたたかいのなかにも、人の持つ素晴らしさを見出し、光を見る瞬間があります。

「一寸先は光」

あきらめないでいきましょう。
求めるべきは声をあげて求めていきましょう。

ホーホケキョ

朝、本堂でお経を読んでいると、外でウグイスが鳴いていました。

ホーホケキョ ホーホケキョ 見事な鳴き声です。

蓮如上人は、ウグイスの鳴き声を「法を聞けよ」と鳴いているとうけとられ、人に生まれた私たちが仏法を聞かなかったら嘆かわしい、とおっしゃったとか。

3月も今日で終わりです。法を聞けよ、法を聞けよとのウグイスの鳴き声を聞きながら経を読みました。

元岩井小学校グランド。桜満開です。

お悔やみ申し上げます

志村けんさんが亡くなりました。
「8時だよ全員集合」を子どものころ見ていた世代です。
好きだったのはヒゲダンス。とにかくおかしかった。

本当に厳しい現実です。
「おほよそはかなきことはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」
「人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば」

蓮如上人の書いたお手紙の一節が頭をよぎりました。

心よりお悔やみ申し上げます。

新型コロナウイルスをはじめとした世界的感染症、巨大地震、環境破壊にも起因すると考えられる自然災害の広がりなどからいかにしていのちを守るのか、本当に問われていると思います。

お墓の相談

昨日は四十九日のお勤めのあと納骨でした。全てが終わり施主さんから、「お世話になりました。母も喜んでいると思います」とのことばをいただき、少しは役に立てたかなとホッとしました。


お墓からかえって別の法事をお勤めしたあと、「お墓のことなんですが」と相談がありました。
「実家のお墓は急峻なところにあり、上がるのがたいへんになってきました。親と同居している子どもはおらず、遠くない将来にお墓の世話をする人がいなくなってしまう。草ぼうぼうにしてしまうのも申し訳ない。西法寺さんには納骨堂はありますか?」
といったお話でした。「納骨堂はあります」とお答えし、利用料の目安、遺骨の管理の仕方など説明しました。

ずいぶん安心されたようでした。納骨堂はこれからますます必要となっていくでしょう。大事な問題なので役員さんとも相談して、納骨堂のしおりのようなものを整備していきたいと思います。

散ればこそ めでたけれ

坊守です。
きのう、西法寺の桜の開花宣言の日記を読み、桜を詠んだ昔の歌を反芻(すう)していました。ホントに沢山ありますよね。

10代のころは、
【願わくば 花の下にて春死なん…】
という、西行法師のサクラの歌が、切なく響いて好きでしたが、
最近は【世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし】(この世に桜なんてなければ、咲いただの、散っただの心揺らすことなく、春をおだやかに過ごせたろうに)という超有名な歌(伊勢物語)に対して詠まれた、
【散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき】(桜は散るからこそますます素晴らしいのです。この憂き世に、永遠につづくモノなどないのですから)
という歌が好みです。
有限だからこそ、愛おしい…ちょっと仏教テイストを感じませんか?

それはどうあれ、
あっという間に2020年の4分の1が終わるとは、唖然、呆然。ここにもはかない現実が。夕方近くなって仕事から帰ると、裏庭の乙女椿(オトメツバキ)が咲いていることに気づきました。なんのお世話もしていないのに、花は去年よりたくさん!

ワサッと枝ごと切って、住職の部屋に活けました。
ナモさんも食らいついてきました。さいきん、花を活けるときはだいたいやってきて、お花をチェックします。

桜が一気に満開に

3日前に桜の開花が近づいてきたとブログで書きましたが、本日、満開となりました。この2日間、あたたかったこともあって一気にです。

ただし今日は雨模様です。法事でお話しすることの準備もあって、読書したり、久しぶりに習字の練習をしたりしながら過ごしています。雨季にこもって修行したり学んだりすることを仏教では安居(あんご)といいます。雨季ではありませんが、1日安居といったところです。

中村元さん訳の『ブッダ 真理のことば 感興のことば』を読んでいると、ブッダが「花にちなんで」と教えを述べているくだりがありました。

「うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある」

「花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラ(香のこと)の花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る」

実にわかりやすいたとえだなあと感心するばかり。

ブッダは、対機説法といって、相手に寄り添って、相手にわかる言葉を使って教えを説かれています。この話をされた時も、花のそばだったのかもしれませんね。