雪のなかの訪問者

昨日の夜、勝手口に足跡が。

ダブのものです。寒いなか、ごはんを求めてやってきたのでした。縁の下で寒さを凌いでいたようで、ごはんを食べて去っていきました。雪のなかを健気に生きているのです。

そして本日は雪景色。積雪は20センチほど。

私も8時前から2時間半ほど、雪かきにあたりました。

年末に除雪機を購入したのですが、よく働いてくれます。

暴風雪です

10時前から雪に加えて暴風が吹いています。12月から3度目の雪。今回もかなりの積雪になりそうです。

雪という漢字、ヨの部分はホウキで掃き清めるという意味があるのだとか。たしかに一面真っ白に覆われるときれいですが、きょうは怖くなるような天候です。

十分気をつけて過ごしましょう。

神社にお参りしました

区内の組長の仕事で御湯(みゆ)神社さんにお参りし、お札を授かりました。

神主さんが、太鼓を叩き、祝詞を読み、お祓いをされます。間近で見るのは初めてで新鮮でした。

お祓いを受けるときには、心の中で、なんまんだぶなんまんだぶとつぶやいていました。八百万の神様は寛大ですから許してくださるでしょう。

神主さんは、町内を始め、県東部の神社にも出仕しておられるそうです。

私もまた機会があればお参りさせていただきます。

ナモの日記(1月)

ナモです。

このごろ、しろいものがおそらからおちてきて、とてもさむいので、ぬくいはこ(坊守注:ストーブ)のまえで、おすわりしたりねんねしたりしています。
おひるまに、おいたんがいないときは、ぬくいはこがきえるので、おいたんがくれたふわふわのべっどでまるくなっておくの。
よるはおばたんのおふとんのなかにもぐっています。あたいは、ぬくぬくがすきです。

このごろ、ねこのおともだちができました。「このさむいのに、おそとでねんねしているのよ」とおばたんがいって「ナモちゃんがたべなくなった、こねこようのカリカリをわけてあげようね」ときめました。

あさとばんに、おぶつまのえんにきて、えさがおいてないと、ニャーン!となきます。あたいがいちばんにききつけて、にゃーにゃーとはなしかけるので、おばたんもきがついて、おおきなまどをがらがらがらとあけて、ごはんをあげます。あたいはそのとき、となりのおざしきにとじこめられるので、しょうじにたいあたりして「あけてよ」と、おこります。

おいたんとおばたんは、ダブちゃんとよぶことにしました。
あたいの倍くらいからだがおおきくて、おかおもおおきいおにいちゃんです。
「さぶいけど、がんばっていきろよ」と、おいたんがはなしかけています。さいしょは「きたないねこだな」と、いっていたけど、おうえんしてくれるようになってうれしいわ

三が日の行事が終わりました

除夜の鐘にはじまり昨日、そしてきょうの修正会で年頭の行事が終わりました。あわせて約50人ほどの参加でした。換気や消毒などにも気をつけつつ、それぞれ短時間でしたが無事に開催できてホッとしています。

コロナに加え次々にやってくる冬の寒波と気の抜けない状況です。当面、雪かきと雪を眺めながらの勉学にはげみたいと考えているところです。運転にも十分気をつけます。

修正会をつとめました

坊守です。

みなさま、あけましておめでとうございます。去年はコロナ対応のため、お寺でも職場でも知恵を絞る事がたくさんありました。ことしももっと厳しいかもしれませんが、どんな想定外と遭遇するか楽しむくらいでいこう…と、思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

さてきょうは、午前は網代道場、午後は田後薬師堂で修正会をしました。
わたしは田後に参加。14人で正信偈をよみました。住職からは、毎年門徒さんにお配りしている本願寺カレンダーのことや、正信偈のなかの好きな一節のおはなしがありました。

初めてこの薬師堂さんで修正会をさせていただいた2020年は、お勤めのあと、お茶やお菓子を楽しみつつ、色んな話に花が咲いたのですが、今年はおやつはお持ち帰りとし、しずかに終了しました。

それにしても、雪の量には地域差がありますね。道中ゆっくり景色を見ていましたが、岩井から出ると雪は少なめ。
大晦日から毎日、隣の寺のお母さんと雪かきに出ています。慣れない雪かきであっちこっちが筋肉痛です。

あしたは本堂でおつとめ。お参りの方のお土産用にバナナケーキを焼いて下さいという住職からのリクエストなので、今夜、久しぶりに作ろうと思います。

雪また雪です

岩美町は雪が降り続いています。紅白も見ないで雪をかく住職です。

コロナに始まり、終息も見通せない中の大晦日です。世界で8000万人以上が感染し、お亡くなりになった人数は176万人を超えました。

もうけと効率を最優先させてきた社会のあり方はこのままでよいのでしょうか?

剥き出しの欲望や煩悩を抑えていかなければ、次世代の人たちに顔向けできません。

私たちは親鸞聖人がいうように煩悩で成り立ち、捨てきれぬ存在です。その自らを直視し、それで果たして良いのかと問い直す必要に迫られているのではないでしょうか。

コロナを経ても変わりませんでした。強いものはより強くなりました、という社会に生きるのか。

ささえあい、つながりあう社会をみんなでつくって生きていくのか。

後者にこそ、「煩悩成就のわれら」の歩む道があるのではないでしょうか。