昨日の春の嵐がウソのような月曜です。境内に目をやると、藤、つつじ、牡丹、山吹などが花を咲かせています。そして、花のまわりを蜂が飛んでいます。





草も目につきます…。今週は草引きをしましょうか。
昨日の春の嵐がウソのような月曜です。境内に目をやると、藤、つつじ、牡丹、山吹などが花を咲かせています。そして、花のまわりを蜂が飛んでいます。





草も目につきます…。今週は草引きをしましょうか。

4月も中旬ですが、大きなあられが降りました。きょうは肌寒く、午前中は本堂のストーブを稼働しての法事となりました。なかなかストーブを片付けられない4月です。
お参りの方のなかに中学時代の同級生の姿も。法事の施主であるお兄さんから私のことを聞いたそうです。せっかくですから、お寺の通信を差し上げました。ホームページをみてくれたらうれしいなぁ。以後、よろしくお願いします。
考えてみると、法事で同級生と会うのは5人目となりました。再会はうれしいことです。
午後は作業をしつつつ、本を読んでいます。西本願寺・第25代門主 大谷光淳氏の著書『仏の教え』のなかにこんな一節が。

「相手の身になって考えることができない。そういう自分への気づきが仏教における原点です」
「人との関係性を『しがらみ』とみるか、『つながり」とみるかで世の中の見え方は大きく違ってきます。他人の過失を見ず、自分の行いを見つめ、整えていくことで、さまざまな人の間にあって、非難にも、また称賛にも動じずいられるでしょう。完全にはできなくともお互いにそういう心持ちであれば、『しがらみ』は『つながり』と見えてくるに違いありません」
私などは、鳥取、山陰という田舎の『しがらみ』がイヤで、お寺の『しがらみ』がイヤで外に出たわけです。ところが、今のとなっては『しがらみ』ではなく、『つながり』であったのだと日々、思い知らされています。ご門主の言われる通りだなあと納得。
「しがらみ」ではなく、「つながり」でいきましょう。
坊守です。
きょうは週末ですが法事がなく、午前中は住職とともに農家のYさん宅に医系学生応援用のお米を買いに。10匹ほどの猫ちゃんがいて、元気に走り回っていました。その後、蓮を植える火鉢を探しにいくことができました。


そして先週、我々ががむしゃらに掘り返した西法寺農園の作業は、降り続く雨により、順延が懸念されていました。
ところが2時半にクロネコさんが段ボール二箱を配達してくださったころに雨があがり、スキとクワ、そして届いたばかりの箱を担いで畑に出ました。
箱の中身は、和歌山の私の実家からの花苗です。小ヒマワリ、ホオズキ、コスモス、ハナワギク、そして青紫蘇が少々。

母によると、去年のこぼれ種があちこちから自生してしまって困っていたものだそうで(うらやましい)、住職が好きな小ヒマワリも沢山ありました。順調に、数カ月後が楽しみです。
それにしても、なんてタイミング良く、晴れてくれたのだろう。

昨秋にタネを蒔いたキンセンカが、あの雪をしのぎ咲きはじめて、キラキラと雨の玉を光らせていました。

先日、境内の手入れをお願いしている庭師さんが、蓮の甕を持って帰られました。
蓮の植えかえのためです。
7月から8月にかけて、こんな花を今年も咲かせてくれるのでしょう。
「家の玄関にもおきたいんですが、甕を持っていったら、蓮を植えてもらうことできます?」と聞いてみたところ、「ええですよ。持ってきてください」とのこと。
早速、甕を手に入れなければ!!
親鸞聖人は『入出二門偈(にゅうしゅつにもんげ)』の中で、曇鸞大師の言葉を引用しています。
「淤泥華(おでいけ)といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地(ろくじ)には蓮(はちす)を生(しょう)ぜず。卑湿(ひしゅう)の淤泥(おでい)に蓮華を生(しょう)ず」
陸ではなく、泥の中から咲く花なのです。しかも、泥に汚れることもなく。
『観無量寿経』のなかでは、念仏者を分陀利華(ふんだりけ)とたたえています。白蓮華のことです。
家の玄関に蓮の花が咲いて、その花を眺めながら、
親鸞聖人が書いた『正信偈』の一節
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
を読めるかもしれません。
夏に向けた楽しみにしたいと思います。
四十九日のお勤めがご自宅でありました。朝晩とCDをかけつつ「正信念仏偈」を読まれたそうです。7日ごとのお勤めを途切れずに行いましたが、みるみる上手になり、ほぼ暗譜されていることがきょう一緒に読んで分かりました。「この歳になるまでお寺さんとは縁がなくて」と謙遜されるおばあちゃんなのです。すっかりファンになりました。
「こんなに毎週きていると、来週からお勤めがないのは寂しいですねー」と私。これ本心です。
「何をいわれるですか。またいつでもあがってください」とご門徒さん。
帰る際に、「忘れてました。先日いただいたカレイがとてもおいしかったです。ありがとうございました」とお礼をいうと、「ちょっと待ってください。昨日干したカレイがあるから持って帰って」と。
「来週も網代に来る予定があるので、また寄ります」とごあいさつして帰りました。
仏事の簡略化はコロナ以前からの流れですが、いっそうその流れが加速しているように思います。お寺と関わることや、そのための時間をとることに意味を見出せないということもあるでしょう。私だって数年前までそうでしたから、偉そうなことは言えないのです。
しかし、こうして毎週お会いすると、亡き人の思い出話がきかれたり、ご門徒さんの人柄や人生について知ることができたり、逆に質問にお答えしたりと、新たなつながりが生まれ、そしてご門徒さんから学ぶべきことがたくさんあることを思い知らされるのです。
日常の法務をはじめ、インターネット、寺報、役員会など、つながりをつくる活動に引き続きつとめつつ、じりっじりっと距離を近づけて、お寺がよりどころの一つになれるようにしていきたいと思います。
政府が、福島第一原発でタンクに貯めている放射能汚染水を海洋に放出すると決めました。朝みているNHK BS1「ワールドニュース」でも各国メディアが大きく報じています。世界的にも大きな関心事のようです。
おおよそ世界の報道は、①政府の決定、②放出に反対する声、③放出を問題なしとする国際原子力機関のコメント、④韓国、中国政府からの反対のコメント、といったものでした。
インターネット上では、世界各国が原発からトリチウムを海洋に放出していることから、反対すること事態がおかしいかのような書き込みも目につきます。
しかし、いっかんして反対の立場をとっている漁業関係者の声を無視して、政府が一方的に決定を下してしまったことに大きな問題があると考えます。世界最悪レベルの原発事故を起こした原発からの放射能汚染水を、復興への努力を重ねている漁業関係者の海に放出するという選択肢以外に答えはないのでしょうか。代替案も提示されているのですから、真面目に検討すべきではないでしょうか。
震災と原発事故から10年。この仕打ちに怒り、憤る福島の方たちの姿をメディアで目にして胸が痛みます。
「誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません」(全日本仏教会「原子力発電によらない生き方を求めて」より。2011年12月1日発表)
この放出を推進し、この計画に賛成することは、福島の人たちにいっそうの犠牲を強いるものではないでしょうか。
計画実施は2年後です。まだ考え直すだけの時間はあります。
あやまりを起こすのは人間ですが、それを正せるのもまた人間です。
本堂裏の洗面所をリニューアルしました。


これまではお湯がでず、寒い時期に不便をおかけしていました。給湯器をつけるとともに、車椅子の方にも利用していただけるようにバリアフリーの洗面台に作り直していただきました。
欅の板の上に洗面ボウルが乗っています。
ミシンの踏み台はデザインです。ウサギのマークが付いてますね。昭和初期に県内でつくられた白兎ミシンというミシンの踏み台だそうです。大工さんに、「鳥取らしいものはどうですか」と提案していただいて、「どうぞ、どうぞ」と。ミシンとしては活躍の場を失ったけれども、ウサギさんにもお寺とともに歩んでいただきましょう。

大工さん、そしてご門徒のみなさんに感謝。


朝晩はまだ肌寒いですが、日中は初夏のような陽気です。昨日、草に覆われたお寺の前の畑をおこしました。
その最中に、お客さんがこられ、「何を植えるんですか?」「去年は里いも全滅でした。花を植えようかと」「うちも去年、里いもだめでした」と畑談義に。
次の週末、作業を続行して、今年はお花畑をめざします!
今日の法事が終わった後の話です。
法事と納骨を済ませて、外で少しお参りされた方と話になりました。
その中に、県の元職員の方がいらして「ここは尾崎翠さんの出生地なのですか?」とお尋ねでした。
生誕の地を伝える碑を見ていただきました。現役時代に、「尾崎翠フォーラム」(15回開催)にも関わったそうです。お墓のある鳥取市内の養源寺さんにも行かれたことがあるとのことでした。
同フォーラムのホームページ
http://osaki-midori-forum.com/index.php?FrontPage
別の方からは、「この前、因幡霊場にいませんでしたか?」と。「はい、その日は確かにおりました。どなたかのご葬儀でしたか」とお尋ねすると、「長い闘病の末に母が亡くなりました。今週はバタバタしておりました」とのことです。
そこからひとしきりお寺談義になりました。以前は機能していたお寺の役員会がなくなり、檀家の声がお寺に届きにくくなっているそうです。その経験からか、「僧侶は人柄がよくないといけません。人の話を聞かないといけません。そうじゃないと離れていきます。人柄がよければ、応援してくれる人はいますよ」と。
そのことば、私も肝に銘じておきます。

法事でお参りの漁師さんから山のようなハタハタとモサエビをいただきました。
「今年の漁はまあまあです。go toがあったころは高値、感染が広がると値は下がる。コロナに左右されます」とのお話でした。
最近、海や山のものをいただく機会があります。東京にいた頃は商品として出回るものを買う完全な消費者でした。しかし、こちらに帰ってきて、漁師さんだったり、農業されている方からいただくと、食べ物のありがたさを、とったり、作ったりされている方のご苦労を想像して、文字通り頭の下がる思いがします。
金子みすゞさんは、
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう
と詠んでいます。
そういういのちもいただいて生かされているのが人であることも、また忘れてはならないと思います。