スクーリングで京都に

坊守です。

土曜から中央仏教学院通信課程のスクーリングで京都でした。

土曜日は筆記試験四教科、日曜は声明の実技試験というメニュー。5月の予定がコロナでひと月半伸びて、勉強時間はかせげたはずでしたが…。
学校の受付で、フェイスシールドを渡されてから、調子が狂ったかもしれません(笑)


学科はすべて、論述式で、配られた原稿用紙に、その教科の問題が、2、3問書いてあるものでした。
声明のテストは、同級生が居る前で、指定された課題をよむという形。
試験官は、3人おられたのですが、私たちのグループの担当は、住職が尊敬するO先生となり、坊守の中年時代で最大といっていいレベルに緊張。
他の生徒の読み方を聞いているうちに、なんべんも読んでいるはずの部分のメロディラインが分からなくなるなど、ビックリな体験をしました。



さて、とにかく昨年入学したにもかかわらず、未体験だったスクーリング&学年末試験は終わりました。
早い便で帰れる!と、期待した14時台の特急は、駅に来てみるとコロナのためまさかの減便で、17時前までぽっかりと時間ができてしまいました。それを口実に、同じ方面の汽車に乗る歳上のクラスメイトと、ケーキセットで休憩〜。

さまざまな世代の同級生がいましたが、これまでの福祉の仕事を通じて命について学ぼうと考えた方や、得度はしているけど勉強をしたい、というお寺生まれの若者、真摯な人たちがけっこう居る場所なんだな、と、嬉しい発見もできました。
私などは、ヘラヘラした生徒です。

ひとつ肩の荷を下ろして、明日からまた、元気にがんばります。

『無量寿経』を読んでいます

先月、生前法名を本願寺から授かっているご門徒さんからの依頼で、法名の意味を調べました。浄土真宗にとってもっとも大切な『無量寿経』が出典です。勉強になったのですが、ふだんは通して読む機会がありません。長いので、法事で読むこともむずかしい(一部、短いお経になっている部分はあるので、そこはよく読むのですが)


これではいかん、ということで、この数日、朝のお勤めの際に読んでいます。いかんせん読み慣れておらず、ゆっくりしか読めません。読んだ後に該当する箇所の現代訳と解説に目を通しています。


これは案外よい試みです。来週早々には終わりそう。次は『観無量寿経』というお経でやってみたいと思います。

2年前のきょうのこと

今日法事がありました。

2年前のきょう、うちのお寺のご門徒さんの縁者の方が大阪で亡くなられました。身寄りに乏しく、生前、年賀状のやりとりはしていた親戚を頼られたそうです。もしもの時には葬儀をだしてくれないか、遺骨は実家のお墓にいれてくれないかとお願いされていたそうです。親戚の方は快く引き受けられ、7月4日、大阪で葬儀を勤めました。参列は親戚ご夫婦2人でした。
葬儀の後、収骨までのあいだに故人との関わりを話してくださいました。


「お見舞いに行くと病室でいうんです。『私の人生とはいったいなんだったんだろう』と。私いったんです。『尊い人生でしたよ』」


こういう方がいて本当によかった、ご苦労の多かった人生だったかもしれないけれど、まかせる、頼りにできる方と最後に会うことができたんだなあと胸を打たれました。


私自身、人はなぜ死ぬのか、なんのために生きるのか、葬儀ってなんのためにするのか、深く考えさせられる1日でした。

その後、納骨、お盆参り、一周忌、お墓の改修とご夫婦とお会いする機会があり、その度に葬儀のことを思い出すのでした。
きょうの法話では、次のようなことをお話ししました。

いただいたいのちはいつか捨てなければいけない。だからこそいのちは尊く、ありがたい。
失われたいのちに、ひざまずき、手をあわせることで人は悲しいという気持ちを育て、人間になった。


どんなつながりであっても、そのつながりを大切にすることで、気づかされ、人として鍛えられることがある。


ふだんは考えることのない死んだらどうなるのかという問いが仏の教えに出会うきっかけになる。

説法というより、この私が葬儀から学ばされたということです。

僧侶というのは、黒い服を着て、袈裟をかけ、お念珠を手にすることで、ふつうならあまり聞くことのない尊い教えに、言葉に出会うことがあります。それを忘れずに記憶して生きていくことを仕事にしているのだと思います。お2人との出遇い、故人との出遇いから私自身、深く学ばされています。

お寺の掲示板(2021年7月)

としをとることも喜びだ 今までわからなかったことが 少しずつわかってくるから

仏教詩人、榎本栄一(1903-1998)さんの詩です。

みなさんはどうでしょうか。

「愚者になりて往生す」との法然聖人の言葉を、親鸞聖人は最晩年88歳の時に書かれた手紙に記しています。

愚者とは頭が悪いという意味ではありません。欲にかられて我を見失ったり、都合の悪い人を排除したり、他者を傷つけたりといった愚かさのことです。自分自身が愚であるという自覚を持つことはなかなか難しいですよね。誰だって人によく見られたい、自分は間違わないと思って生きているのですから。

榎本さんはそういう自分の姿を直視し、愚かな私を救い取ろうとあくことなくはたらき続ける阿弥陀仏への感謝をこのように詠まれたのかなと想像しています。

愚者であることを知ると、まわりの人を見る目もかわると思います。そのことを私に気づかせてくれた仏さんに自然と頭が下がるのではないでしょうか。

榎本さんには次のような詩もあります。

肉体はおとろえるが こころの眼がひらく 人間の晩年というものはおもしろい 今日まで生きて いのちの深さがみえてきた