いのちをいただく

法事でお参りの漁師さんから山のようなハタハタとモサエビをいただきました。

「今年の漁はまあまあです。go toがあったころは高値、感染が広がると値は下がる。コロナに左右されます」とのお話でした。

最近、海や山のものをいただく機会があります。東京にいた頃は商品として出回るものを買う完全な消費者でした。しかし、こちらに帰ってきて、漁師さんだったり、農業されている方からいただくと、食べ物のありがたさを、とったり、作ったりされている方のご苦労を想像して、文字通り頭の下がる思いがします。

金子みすゞさんは、

浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

と詠んでいます。

そういういのちもいただいて生かされているのが人であることも、また忘れてはならないと思います。

ズームは便利なのだけど

コロナの感染拡大で、さまざまなことがオンラインで行われるようになりました。
浄土真宗本願寺派因幡(そ)の執行部会も、先日、ズームで初開催。
組(そ)長さんの導きのもと会議は成立。うまくできなかった方とは、後日、補講をされるそうです。


コロナの終息が見通せないなか、こうした形での会議が増えていくことは避けられません。

そのズームですが、アメリカ本国で法人税を納めていないそうです。
他にもナイキ、フェデックスなど超巨大企業も納めていません。
ナイキは人種差別反対のメッセージを明確にしている企業です。ちょっと意外でした。

なぜこんなことができるかと言うと、税制上の優遇措置という名の抜け穴があるからです。

バイデン大統領は、「私は誰も罰することはしない。しかし普通の人々がだまされることにはうんざりしている」と税金逃れを続けている大企業に苦言を呈しています。

「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない」
(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』36ページ 岩波文庫)

ブッダの言う通りだからこそ、政治の役割が期待されるところです。

お釈迦様の誕生日に

坊守です。

きょうは4月8日、お釈迦さんの誕生日です。ハピバースデー!ガウタマ・シッダールタ!!(軽い)


シッダールタは、仏陀になる前は、インドの小さな国の王子だったわけですが、花畑で産気づいたお母さんの右脇の下から生まれ、その場で7歩あゆみ、右手を上に左手を下に向け「天上天下唯我独尊」と言った赤ちゃんだったそうです。そのことを大学の仏教学の講義で聴いた私は(当時18歳)椅子から転げ落ちるべきなのか、笑わず真顔で呑み込むべきなのか、思わず周囲の様子をうかがったものです。


そして、この疑問は、つい最近まで抱えたままでしたが、中央仏教学院の先生が、この状況の意味するところをお話くださり、謎が解けました(同じ謎を感じていらした方は、機会があれば解説します)。


この方が居なければ、住職もわたしも、いまここにはいなかったに違いありませんので、お誕生は祝っておきましょう。


予定通りであれば、仕事もお休みをとって、網代の道場で皆さんと甘茶を飲んでいたはずなのですが…かないませず。コロナ感染が収まってほしいと切に思う春も2度目をむかえてしまいました。

空いたスケジュールは、雪で折れた我が家の庭木の枝を始末して、西法寺農園の草取りや種まきにあてました。
昨年の種がこぼれて、フジバカマが数株芽吹いていたのと、アジア野菜のパクチーも、ひと株自生していました。


ハコベやオオイヌノフグリ、踊り子草が地面を覆って、その隙間から、ナナホシテントウが赤い姿をみせてくれて、それはかわいらしい情景でしたが、お花も作っていきましょう。
種は、キンセンカ、サポナリア、ゴデチャなどを蒔きました。

葬儀が終わって

葬儀が終わり、今こうしてブログを書いています。

「何かと世話を焼いてきただが。かわいくて」とおっしゃるYさんが、亡きAさんに手をあわせ涙しておられました。

私も、Aさんと、この数ヶ月、何度か顔をあわせる機会がありました。先月も、お寺まいりの際に言葉を交わしました。このお別れは残念でなりません。

同じ浄土真宗のご門徒同士でもあったYさんとAさんは、さまざまなことを相談し合う仲でした。「私の方が一方的に喋ってばかりだったけど」とYさん。Aさんは、その励ましを受けてずいぶん頑張っておられたようです。

つながり、支えあって生きていくことのすばらしさを、このお2人の関係から学ばされておりました。

浄土真宗では、御同朋(おんどうぼう)といいますが、私たちは、阿弥陀仏のお慈悲に照らされ、同じ念仏をいただく仲間です。御同朋とはお2人のような関係のことをいうのではないかと思います。

Yさんがガックリして元気をなくされるようなことがあったら、Aさんが悲しむことでしょう。これから私も、Yさんのことを気にかけていかないとと思うのでした。

お寺に布教に来られるご講師さんがよくおっしゃいます。「御同朋を大切に」と。

そのこころを大切に、私も勤めていきたいと思った本日のご葬儀でした。

合掌

お寺の掲示板(2021年4月)

「人のわろきところはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼえざるものなり。わが身にしられてこころわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふとおもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをばよく信用すべし。わがわろきことはおぼえざるものなるよし仰せられ候ふ」(蓮如上人『御一代記聞書』より)

室町時代の僧侶で、本願寺第8代の門主である蓮如上人の言葉です。

人の悪いところはよく見えるけれども、自分の悪いところは見えない。
自分でも悪いことをしてしまったと思うようなら、それはよっぽどのことであるから、心がけを改めなければならない。
自分の悪いところは気がつかないものだから、他者の声に耳を傾けなければならない。

ほんと、実に耳が痛い言葉です。

これができれば、人と人との関わりあいも、国と国との関係も、また違ったものになると思うのですが。

ナモの日記(2021年4月)

ナモです。

ダブ兄ちゃんが、こなくなりました。おめめがさめたら、にいちゃんがつかっていただんぼーるの中をのぞいてみますが、まいにち、からっぽです。

おいたんは、おそとでネコがいそうなばしょをさがしてあるいたけど、みつかりませんでした。「いつなにがあってもおかしくないかんきょうで、いきていたんだもんな」といっていました。

あたいは、兄ちゃんがいつかえってきてもいいように、よるはえんがわでねんねしていたけど、おばたんが、こんなお話をしてくれました。

ダブは、ニンゲンのおじいさんのお庭にあそびにいく野良ネコでした。くいしんぼうのダブが、おかわりをねだっても、にこにこわらって食べさせてくれました。
おじいさんは、ひとりでくらしておったので、ひとりぼっちのダブとは、いいあいぼうでした。
ところが、このふゆは、なんどもおおゆきがふる、さむいふゆになりました。おじいさんは、びょうきがわるくなって、にゅういんしてしまいました。ダブは、ごはんがもらえないので、おなかがぺこぺこになりました。ぱとろーるしていたおうちにすんでいるおぼうさんが、しましまのネコのごはんをわけてくれたので、まいにちそのおうちにいくことにしました。べっどをつくってくれたり、さむいよるには、すとーぶをつけたおへやにいれてくれたり、あんしんできるおうちでした。
でも、ダブはどんなにいごこちがよくても、おぼうさんのところに、いちにちじゅういることはありませんでした。おじいさんがかえっていないか、まいにちおじいさんのおうちをみにいかなければならなかったからです。
ふゆがおわるころ、おじいさんのいえに、あかりがつきました!
ダブはいちもくさんに、おじいさんのところにとんでいきました。
「よくかえったね」と、おじいさんはダブをだっこしました。それからダブは、そのおうちのネコになりました。まいにち、くいしんぼうをして、もっとまるまるとしたネコになりました。

おばたんのお話が、ほんとだったらいいとおもうわ。

「ダブは、まいかい『にゃーん』とあいさつして、さっていくりちぎなネコだったな」と、おいたんがいいました。


こんなきゅうなバイバイがあるとしっていたから、ダブ兄ちゃんは、こんにちは、と、さようならのごあいさつを、ちゃんちゃんとしていたのかもしれません。

最近やってくるしまちゃん(仮名)

あいたいのに、あえないのは、かなしいわ。がまんできなくて、兄ちゃーん!とないちゃうときもあります。そんなときは、おめめをつぶりなさい、とおしえてもらいました。すると、兄ちゃんのきいろいまんまるいおめめや、はいいろの毛がふさふさしたせなかが、みえるのです。

お念珠を編んでみる

毎月、お寺にこられる法衣店さんを講師に、坊守と住職が、お念珠編みに挑戦しました。

不器用な住職はあてになりませんが、坊守は手順を覚えてくれたようです。器用な人は違いますね。

本当なら8日に網代のみなさんとお念珠編みをする予定でしたが、集まりを中止としました。コロナの状況にもよりますが、遠くない時期にみなさんと編んでみたいと思います。

花見をしつつ歩きました

旧岩井小学校グランド

大谷集落の小川沿い

午前は出来上がった西法寺通信を配りがてら町内の桜を見て回りました。

岩美駅
網代神社石段下

5日から予定していた網代地域の宅参りは、県内が13日まで、感染急拡大警戒期間となったことも受け、中止することにしました。

午後は網代の世話方さんのところを回って中止の案内を各戸に届けていただくようお願いしました。

「残念ですね」「急に増えてきて、仕方がないですね」「やればいいのに」「仏壇掃除してまっとっただがー」と反応はさまざまです。ある方から「長いこと仏壇を拝んでもらってないけえ、また参ってください」と言われたことが胸に刺さりました。新しい試みもしようと思ったていたので、本当に残念です。

行く先々で、手作りの干物やお惣菜など抱え切れないほどのお土産をいただきました。感謝。

浄土真宗では聴聞が大切とされています。仏の教えを聞くことです。私自身は生きる姿勢としても大切だと思っています。でかけていって聴いてみると、聞こえてくることがあるということです。ある僧侶の方が、聴は耳が外に出ている。聞は、中にあると教えてくれました。

聴きにに行って、聞かせていただいたことをカテにして、一歩一歩です。

スパイダーマン?

雪の重みで屋根瓦がズレていることへの対応で、瓦職人さんに見ていただきました。

するすると登っていかれます。

下から見ていると怖い!

雪の重みで、瓦を支えている銅線が部分的にのびてしまったようです。ただ銅線は切れていないので、今のところ瓦が剥がれ落ちる心配はないとのことでした。

たしかな職人さんがいらっしゃって、お寺をはじめ文化財や歴史的建造物は守られているのですねー。

本堂は一度大改修をしていますが、この地に建って150年余。それでも職人さんにいわせると、「若い建物です」。

時間の尺度が違うのかもしれません。

深く深く感謝します。