お経本を作り直す

葬儀のあとの還骨(かんこつ)法要の際に読むお経の本を作り直しました。これまでは表紙も薄い紙だったので、随分くたびれてしまい、表紙は厚紙に。しばらくはこれでいけそうです。

お通夜や葬儀の際には、静かに参列される方がほとんどで、いっしょにお経を読まれる方は、ごくわずかです。還骨法要では、少なくない方がいっしょにお経を読んでくださいます。

浄土真宗のお経を読むことはそれぼど難しくありません。日常的なお勤めについては網羅されている勤行集があります。しかし葬儀の際に読むお経本は、おもに僧侶用のものはありますが、お参りいただいた方にお配りするには、サイズが小さすぎるように思います。

それもあって、お通夜、葬儀、還骨法要と、すべて手製の経本をお配りするようにしました。また、お通夜と還骨法要の際には法話の原稿をお配りしています。

もし手もとに何もなければ、お参りのみなさんは、「私たちには意味の分からないお経でも、故人には慰めになるのかな」といった具合に受け止められるかもしれません。決してそうではないと思います。

悲しい中にも、一つでも何か気がつくことがあれば、その助けに少しでもなれば、という気持ちでお勤めしています。そのためには、手もとに本があるということは、私にできる最低限の仕事であると考えています。

諸行無常というのでしょうか

これからお通夜のおつとめです。お母さんと別れることとなった息子さんは、病院でお母さんが亡くなっていく様子を見守られたそうです。「あまり痛がらない母が、『えらい、えらい』というので病院に行きました。ベットの上では苦しむこともなく、だんだんと呼吸も弱くなり、眠るようにすぅーっと息を引き取りました。これを諸行無常というのでしょうか」と呟いておられました。

すでにご往生された旦那さんについて、「最初は悲しい、悲しいばっかりだったけれど、時間が経つとありがとうって思えるようになりました」と話されていた在りし日の姿を思い起こしています。

合掌

『捨てられる宗教』

宗教学者の島田裕巳氏の本を読みました。

葬儀のあり方は社会のあり方に大きく左右されます。著者がいうように人生100年時代を迎えるいま、「いつ死ぬかわからない」という死生観が大きく変容しています。そうなると、「来世に期待をかけ、現世において信仰生活をまっとうしようということにはならなくなる」「宗教への期待は薄れる」としています。

では、彼は生き死にの問題にどのように向き合っていくことを提案しているのか?

テレビ、犬を飼う、歌舞伎、芸術鑑賞などあげつつ、学び続けることがもっとも賢いとすすめています。

そして年を取ったら現実の社会と距離をおくことをよびかけています。「人間は最後、世俗の生活から身を引いて生きる必要がある。世の中を批判的に見ていけば、あらばかりが目立つ。それに一々反応していても、いつまで生きられるかわからないのだから、無駄で無益なことである」

「ただ生きている、やっかいな時代である」

島田さんは直葬や0葬についてたくさん著書を書かれています。世界の宗教の動きにも目を配っておられます。現状の分析としては「そうなんだ」と教えられること大ですが、果たして「人類は宗教を捨てようとしている」という指摘は妥当なのでしょうか。

「真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるものである」。哲学者の西田幾多郎氏(1870-1945)はそのようにいいます(『善の研究』P181)。

私自身は、そうした宗教が、今後、復権する可能性も大いにあるのではと思います。

西法寺農園リターンズ

野菜栽培はあきらめて、畑は花を咲かせることをめざすことにしました。

手前はダッチイリス

真ん中はオクロレウカ

奥はアヤメです。

和歌山のお母さんからいただきました。ありがとうございました。

しかし、いただいた球根がまだあります。

さらに畑を掘り返し、白水仙も植えました。

「お寺さんに聞きたいことがある」

昨日、町内の食堂で昼食を食べていた時の話です。
その店は常連さん憩いの場所で、私含め4人は3週間ほど前にも同席した4人でした。
私は僧侶をしていると自己紹介もしていたので、「お寺さんに聞きたいことがある」と話しかけられたのです。

お一人の方は、「お墓を一つにしたいが、どう考えたらいいか」ということでした。
なんでも10個ほどの墓石があり、「将来のことを考えると一つにしたい。でも、子どもは都会に出ていて、一つにしても見てくれるかどうかわからない」

これはなかなか難しい相談です。「私だったらお墓は何もしないでそのままにしておくかなあ。いずれにしても、その思いをご家族、お寺さんにも伝えてよく相談されるのがいいのではないでしょうか」とお話ししました。

もう一人の方は、お布施への不満です。「20年ほど前の話だけど、親が亡くなった時のお布施として70万円、納骨の際にも6万円ほどかかった。ワシの時にはそんなに払うことはできない」と話されます。

「70万円もお布施をいただいたら、私ならドキドキしてお経を間違えるかもしれません」と話すと、食堂内、爆笑でした。お寺によってはお布施の額を決めているところもあります。決まっていなくても、このお寺では葬儀の時はこれくらいと暗黙のルールになっているようなところもあります。

が、しかし、「あまり気にしないことですよ」とお話ししました。

お布施の大小で判断することは僧侶が最もやってはいけないことです。今、年金は増えず、介護その他、お金がかかるのです。お寺に葬儀を依頼することだって当たり前ではない状況ですから。

思いがけずお寺談義になりました。
西法寺のご門徒さんとの関係でも、「なんでも気軽に聞いてください」ともっとアピールしていかないとけないなと気づかされました。


竜美台からの絶景

きょうは大山町の僧侶の方と相談事があり、道の駅へ。大山町からは50分、岩美町からは40分ほどのところに位置する「道の駅きらり」

温泉地ということもあって足湯があります。

相談は30分ほどで終了。12月の初めに再度集まってつづきをすることに。昨年秋に結成した鳥取宗教者平和協議会という集まりがあるのですが、開店休業なので、再開しましょうという話し合いです。12月1日は大山町に集まります。会場は樹木葬に力を入れているお寺さんでもあります。そしてお寺からは名峰大山が望めます。晴れていたら写真アップするので、お楽しみに。

さて、道の駅からの帰り道、ビューポイントの竜美台から海を眺めました。

なかなかの絶景でした。

元の家主さんの法事でした

住職と坊守が現在住んでいるのは、お寺から徒歩30秒の古民家です。きょうは数年前までこの家で生活されていたご門徒さんの法事でした。お墓もお寺のすぐ隣ですから、本堂で読経したのち、お墓の前でも読経しました。

元の家主であったご門徒さんは書を楽しんでおられました。筆と大量に残されていた半紙は、いま私が使わせていただいています。家の方には書をそのまま飾っています。

達筆すぎてわたしには読めないのですが、どなたか読んでいただけたら、何が書いてあるのか教えてください。

学術会議の任命拒否について

学術会議の会員候補6人を任命しなかった問題が連日報じられています。任命を求めるネット署名も14万人を超えたそうです。また、昨日は国会で宗派をこえた宗教者が記者会見し、「学問の自由をゆさぶる」として抗議声明を発表しました。

学術会議は「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」という立場を堅持してきました。戦争に協力した反省からです。任命を拒否された研究者の方たちは安保法制に批判的な立場をとっています。

首相は、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点」から任命を拒否したとし、「学問の自由とは全く関係ない」といいます。そうでしょうか? 「全く関係ない」どころか、政府の施策への立場を判断材料にしたとしか思えません。

反対意見をどう扱うかによって度量の大きさは測れると思うのですが。菅さんというのはこういう人なんだなということがハッキリ示されたといえばそれまででしょうか。

学問の自由は、これを保障する。

憲法を遵守する立場から、政府は任命拒否を撤回すべきだと考えます。

網代のなだばたにて

町内に引き続きお寺の通信を配っています。網代の近くまで来たので、なだばたの風景を。

波おだやか。対岸は鳥取砂丘です。

なだばたとは、井戸端の港バージョンです。みんなが集まる場所のこと。きょうも男性陣が大きな声でなだばた会議をしておられました。

配り物もあと少しで終了です。お寺とご門徒さんをつなぐために通信(寺報)をつくりましたが、コロナ禍のなかで役割を果たしてくれているように思います。先日も法事の際に、「読んでますよ」と声をかけてくださる方がいらっしゃいました。

次は来年1月の予定です。新春らしい話題をお届けできるよう準備しなければ。

田後漁港にて

田後漁港にきました。車を止めて西法寺通信を配っていただいている世話方さんのところへ。世間話からお寺や地域の話題、健康、ネコのこと、人はなぜ争い事をやめないのかといったテーマまで。あっという間に夕方です。話し込みすぎたかも。せっかくきたので、しばし海を眺めて波音に耳を傾けましょう。これって贅沢な時間かもしれません。

では配りものの続きをして、帰るとしましょう。