掃除の日々

網代道場の庭の草刈り続きです。最高の青空!

先日刈りとった草をゴミ袋に詰め込みました。まだまだたくさんあるので10袋以上になるかも。農村部の岩井だと燃やしても大丈夫ですが、網代はお隣との距離が近いのでそうもいきません。車で持って帰るには急な数十段の階段を登らないといけない。網代で燃えるゴミとして出すには集積場まで手で持っていかないといけないし、、、。とりあえず今日は午前中で終了。また明後日、作業を続行したいと思います。持って帰って燃やすしかないかなぁ。

めざすは、去年のこの状態。

今日は地域の清掃日

春から秋にかけて月1回、集落の清掃日があります。5月はコロナウイルスとの関係で中止ですが、いくつかに別れている組の代表者が集合して河川敷と公園周辺の掃除をしました。中山間地の必須アイテムは草刈機です。約90分、朝からいい汗かきました。

巨大な集草袋!

当地岩美町も人口が減っている自治体です。今回の新型コロナウイルスで大都市部への一極化、地方でも中核都市に人を集める従来の方策が見直されるかもしれません。

ただ、地方は安定的な仕事が少なく、同じ仕事でも時給が非常に低いです。ガソリン代はかかるし、物価も都市部と変わらないか、むしろ高いと思うこともあります。

ただ、あきらかに都市部よりゆっくり時間がすぎる、人と人とのつながりがある、地に足をつけた生活ができます。

このブログでも岩美町のいいところを発信していきたいと思います。

お寺の清掃日

本日、お寺の清掃日を予定していました。コロナウイルス感染拡大を防ぐために中止の案内を出していたのですが、こちらの連絡不足でお2人、お見えになりました。住職と坊守2人は当初から掃除をする予定にしていたので、合計4人で本堂の縁と中を相当念入りに拭きました。ありがとうございました。

来てくれたお2人は職場の同僚でもあるそうです。職場ではマスクが支給され、手洗い・消毒もされているとのことでした。

新しい生活様式が提唱されるなか、お寺としても密とならない工夫、消毒など引き続きとりくんでいかなければなりません。長期の取り組みを覚悟しなければならないと思います。

鎌倉時代の女性

本願寺の月刊誌『大乗』の5月号に、興味をそそられる記事がありました。釈徹衆さんと筑波大学名誉教授の今井雅春さんの対談です。テーマは、親鸞聖人の妻・恵信尼です。鎌倉時代は、女性の社会的地位が高かった時代です。今井さんは恵信尼もそうであったことを指摘して、信仰においても、「親鸞聖人が上から教える、導くということではなく、恵信尼さまと共に生きたとみるべきではないか」とのべています。

恵信尼の祖父・三善為康は、「往生極楽は信心に在るべし。必ずしも出家に依るべからず」「その上で念仏をずっと称えていれば十人が十人、百人が百人、臨終の時には全員が漏れることなくすぐさま極楽往生できる」と答えるような人だったそうです。今井先生は、祖父、父、そして恵信尼へと三善家には念仏のあつい雰囲気があったのではないかと説明しています。

親鸞聖人と恵信尼は、法然聖人のもとで出会ったと推測されます。今井先生は、親鸞聖人は、恵信尼から最初は教えてもらっていたのではないかと。もちろん資料からそういえるということではありませんが、ありえるのではないかと。だから親鸞聖人は惹かれたのかもしれません。

長々と書きましたが、恵信尼は、優れた女性であったあったと思われる面とともに、経済的にも自立しており、独立した人格と力をもっていた鎌倉時代の女性であった、といえるのではと思います。

14世紀の室町時代から、それまでの夫が妻の家に通う「妻問婚」から妻が夫の家に入る「嫁取婚」が支配的になり、女性の地位は後退し、男性支配の歴史がそこから始まったとの説が有力です。戦国武将の結婚形態を見ればよくわかりますよね。

明治時代の教育勅語には、「夫婦相和シ」とありますが、その解説書には「妻はもともと智識才量多くは夫に及ばざる」とあります。明治時代や戦前を懐かしむ方がいらっしゃいますが、どうなんでしょうか。

ちなみに、ヨーロッパでは、紀元前から男性支配の歴史ですが、日本ではそれよりもはるかに遅れて男性支配の歴史がはじまったわけです。こんなのは短いことに越したことはありません。

いま法のもとでは平等ですが、そうではない現実も多々あります。そうしたなかでジェンダー平等(性差の差別のない)社会をめざす多様なとりくみが進んでいます。なかなかの大きな課題ですが、差別や分断を許さないことは仏教の大切な精神でもあります。

釈さん、そして今井先生の対談からはだいぶ離れましたが、対談を読み、ここに立派な先輩がいるではないか、と思った次第です。

藤が満開です

藤波の 花は盛りに なりにけり 平城(なら)の京を 思ほすや君

『万葉集』には藤を詠んだ歌がたくさんあるそうです。満開の藤を眺めて私も一句、としばし考えましたが浮かびません。

そういえば藤がつく苗字って多いですよね。

藤田さん、藤波さん、藤川さん、藤本さん、藤山さん、藤野さん、藤倉さん、藤島さん、藤崎さんなどなど。

いやいや、よく考えたら浄土真宗本願寺派の寺紋は下り藤じゃないですか。なぜなのか気になったので調べてみました。第22代の鏡如門主が、明治31年、九条籌子と結婚し、以来九条家の家紋の下り藤を寺紋として使うようになったそうです(制度化されたのは明治36年。九条家の下り藤と本願寺派のそれには、若干の違いがあります)。

全然知りませんでした。

ひまわりが発芽しました

連休も最終日です。

ひまわりが発芽しました。こんな小さな芽から2メートルをこえる大きさになるから不思議です。原産地は北アメリカ。日本にやってきたのは17世紀なのだとか。当西法寺も17世紀のはじめの創建ですから、どことなく親近感がわきます。

上の写真は去年の夏のひまわりです。今年も大輪を咲かせてほしい。

それにしても、今年はどんな夏を迎えるのでしょうか。

『ペスト』を読みました

カミュの『ペスト』を読み終えました。

いくつもの、とても印象的な表現に出会いましたが、2つだけ。

ヒロイズムなどという問題じゃないんです。‥ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。

リウーは少し身を起し、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーには何かはっきりした考えがあるか、と尋ねた。 「あるね。共感ということだ」

人びとへの誠実さ、そして共感。カミュは人が生きていく道を極限状態を描く中で際立たせたかったのでしょうか。神を信じるものも、信じないものも、力を合わせてペストに立ち向かっていきます。あるものは死に、あるものは生き残ります。解放された人々は喜びに満ち溢れますが、カミュはそこにも心をよせつつ、不条理を記憶し、決して忘れてはいけないと読者に訴えかけます。いまと重なり、胸を打つとともに、私たちは過去の記憶からいったい何を学んでいるのだろうかとも思います。

でも、多分、反省を迫るということにとどまれば、それはカミュの思いを活かすこととは違うようにも思います。人間を守るために、できるだけ広く手をつなぐことの大切さをカミュは訴えているからです。そこにくみとらなければならないメッセージがあると思いました。

さて、私は電子書籍で読んだわけですが、なかなかよいなと思う点がありました。ワードを検索すればページ数が表示され、そのページに容易にいくことができます。登場人物や言葉の解説をしてくれますし、コピーしてメモやメールに添付することもできます。

本を本棚に並べてという満足感はないのですが、長編を電子書籍で読むのも案外いいなと思いました。

地元・牧谷窯のお皿

坊守です。
久しぶりに我が家のうつわを買い足しました。
器は以前から好きで、東京在住のころ、それがこうじて、谷中の陶芸工房に通っていた時期もありました。
いちど作る立場になると、湯呑みをひっくり返して高台をみたり、絵付けの技法を推理したり、掌の上の一品から色々な情報を取ろうとしてしまいます。

これは、20年近く愛用している楕円の皿の柄(技法)違いというので、イナズマのような勢いで「売ってください」とお願いしました。

つくり方は「練り込み」というもの。色をつけた粘土同士を何種類か組み合わせて柄を出す、綿密で忍耐強い仕事をした結果の器です。お菓子作りをするひとなら「市松模様のアイスボックスクッキーを作る感じ」と言えば、イメージできるかもしれません。

シンプルなデザインの上に盛る食べ物は、和洋を問わず映えて、なんでもござれ。明日から、住職のつくるご飯がますます美味しくなりそうです。

これは、地元・岩美の牧谷窯の品です。住職の妹のパートナーが作っています。この、コロナの騒ぎがなければ、工房をのぞきたかったのですが。

きょうは憲法記念日

午前中は一つ法事があり、人数を絞ってのお参りでした。お互いに距離を置いてでしたが、『正信偈』を上手に読まれる方がいらっしゃって、脱帽でした。

さて、きょうは憲法記念日です。集落の当番で河川敷の掲揚台に日の丸を掲げてきたのですが(おそらく人生初です)、それで終わりではもったいないので、日本国憲法を最初から最後まで読みました。

「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と第29条3項にあります。自粛を要請する以上は補償が必要となりますが、その根拠はここにあります。

前文では、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあります。新型コロナウイルス感染拡大という状況で読んでみると、どんなことが求められているのかなあと考えさせられます。

医療、福祉の充実、そして文化、芸術、スポーツなど生きるために必要な分野を大切にすること。

政府も、そして私たちも、世界とつながりを深め信頼関係を構築し、情報を共有して、恐怖から免れる道筋を見つけていくこと。

もうけや効率を最優先して、地球を痛めつけるような現実のままでは、この権利をいつまでも実現できないなあとも。

日本国憲法の値打ち、再発見しました。

自分のしたこと、しなかったったこと

「他人の過失をみるなかれ。他人のしたことと、しなかったことを見るな。ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ」(岩波文庫『ブッダ 真理のことば 感興のことば』中村元訳・17ページ)

このことばは、よく人間関係において使われます。相手のダメなところを指摘すると口論になるから、自分のことに専念すれば口論にならないといった。たしかにそう思います。

ですが、いま新型コロナウイルスに向き合う日々のなかで、ブッダのことばは、抜き差しならない現実をあぶりだしていると思います。あまりいい意味ではなく、欠点・課題として。

外出自粛要請のなか、外に出かけてしまった人たちをわさわわざテレビカメラを持って報じるワイドショーは、あきらかに他人の過失を罰しています。

PCR検査を増やすという約束を守れなかった加藤厚労大臣は、「2万件やると申し上げているわけではありません」と、自らのしなかったことを見ようともしません。

安倍首相は、緊急事態宣言を1月のばすようですが、さらなる痛みを強いられる人びとが増えるでしょう。失業者は77万人生まれると予想されています。

政府は、したこと、しなかったことをどう検証しているのでしょうか? 思うに、要請に従うものにも十分な補償はしない、従わないものには社会的制裁ではありませんか。

宣言が延長される主たる要因はもちろんコロナウイルスの感染拡大でしょう。ですが、自粛を守れない国民にも責任があるなどと転嫁されるのはたまりません。

したこと、しなかったことを謙虚に見つめて、政治の責任を果たしていただきたい。