岩美まちづくりの会で管理している花壇のリニューアル作業に参加しました。
これまでの花壇について、ともに作業をしている岩美高校の生徒さんから、「畑みたい」との指摘もあって、レンガで囲む花壇につくりかえることになったのです。


午前中の作業でここまできました。あとは午後から高校生参加のもと完成をめざしますそうです。岩美高校のみなさん、よろしく!
岩美まちづくりの会で管理している花壇のリニューアル作業に参加しました。
これまでの花壇について、ともに作業をしている岩美高校の生徒さんから、「畑みたい」との指摘もあって、レンガで囲む花壇につくりかえることになったのです。


午前中の作業でここまできました。あとは午後から高校生参加のもと完成をめざしますそうです。岩美高校のみなさん、よろしく!
あすは網代のご門徒Aさんの米寿の誕生日です。この前の日曜、お祝いのプレゼントをもって坊守とうかがいました。
「あっとろしい」とAさん。鳥取弁で、びっくりした、恐れ多い、といった意味です。


私はAさんに誘われて習字教室にも通うようになりました。よき先輩であるとともに、年の離れた親友です。
俳句をはじめ多彩な趣味をもち、料理やお団子づくりが上手。お寺にも長年に渡ってお参りいただいています。
昨年の報恩講の直後にAさんは私に電話をくれました。「姑から『家事の手を休めていいからお寺に参りんさい』といわれたことがあった。そのことをきょう、久しぶりに思い出した」と話されました。
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪(とぶら)え」
中国の僧・道綽が『安楽集』に記した言葉です。Aさんと姑さんとの関係はこの言葉どおりだったのでしょう。そしてAさんと私・坊守もこういう関係ではないのかなと、ありがたく思っています。
1日早いですが、米寿、まことにおめでとうございます。
核兵器禁止条約が10月25日、批准した国が50カ国となり、90日後に発効することになりました。
うれしいニュースです。
核兵器は違法であり、開発・実験・生産・使用が禁止されることになります。核保有国は無視するのでしょうが、違法であると認定されることは廃絶に向けて大きな力になることは間違いないでしょう。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)
人類は核兵器を作り出し、使用し、たくさんのいのちを奪いました。が、その間違いに気づき、正せるのも人間だけです。
長年にわたる被爆者のみなさんのご苦労に心から敬意を表するとともに、いっこくも早い核兵器の全廃をめざして、私も努力しなければ。
昨日に引き続き、本日は田後(たじり)での納骨のお勤めでした。まず仏間で合掌です。
西法寺通信を見ていただいたようで、御本尊の両脇の掛軸が反対であったことに気づかれたそうです。通信ではお仏壇の飾り方について紹介したのですが、目を通していただいている方から声をかけられることもあります。参考にしていただければ幸いです。
お経のあとは「しんらんさま」を流しました。島倉千代子さんの歌付きです。実は私もはじめて聴きました。


小さいお子さんもいっしょに歌ってくれ、「ボク覚えちゃったよ」と。
亡き方が好きでよく口ずさんでおられたという「しんらんさま」のこころは、世代を超えて受け継がれているようです。
島倉千代子さんが歌う「しんらんさま」のCDは1600円です。お寺で販売しております。

堤防に高波が押し寄せているのがわかるでしょうか。晴れですが強い風が吹いています。ここにくると自然の素晴らしさときびしさの両面に出会います。
さきほど網代での納骨のお勤めが終わりました。納骨は一つの区切りです。
「悲しいばっかりだといけないのですが」とご遺族の方がおっしゃいました。
悲しいというのは、忘れがたいつながりがあるから。人間としてのあかしではないのかなと思います。
そして、この墓地というところは、深い悲しみを抱えつつも、懸命に生きている人たちが、いのちについて思いをはせる場であるのではないでしょうか。
「その悲しみが生きる力になるといいですね」とこころのなかで呟いて墓地を後にしました。
南無阿弥陀仏
お寺内のインターネット環境をつくっている最中です。庫裏の方ではインターネットができるようになりました。しかし、本堂まではやはり電波が届きません。そこで、市内の電機量販店でWi-Fi中継機を買ってきました。
さっそくつないでみたところ、本堂でもインターネットができるようになりました。一安心です。
さて、市内からの帰り道、ちょっと遠回りして鳥取砂丘付近をドライブしました。

風が強く、波も荒れていました。

11月21日(土)午後1時半より「第10回 こころのコンサート」を開催します。出演は、元デュークエイセスの大須賀ひできさん。そして玉木孝治さん拓人さんです。
ソーシャルディスタンスコンサートとなります。本堂への収容は最大30人を予定しております。密を避けるため、開け放っての公演となります。境内に椅子を並べて聴いていただくことになるかもしれません。防寒対策もとってご参加ください。
葬儀のあとの還骨(かんこつ)法要の際に読むお経の本を作り直しました。これまでは表紙も薄い紙だったので、随分くたびれてしまい、表紙は厚紙に。しばらくはこれでいけそうです。

お通夜や葬儀の際には、静かに参列される方がほとんどで、いっしょにお経を読まれる方は、ごくわずかです。還骨法要では、少なくない方がいっしょにお経を読んでくださいます。
浄土真宗のお経を読むことはそれぼど難しくありません。日常的なお勤めについては網羅されている勤行集があります。しかし葬儀の際に読むお経本は、おもに僧侶用のものはありますが、お参りいただいた方にお配りするには、サイズが小さすぎるように思います。
それもあって、お通夜、葬儀、還骨法要と、すべて手製の経本をお配りするようにしました。また、お通夜と還骨法要の際には法話の原稿をお配りしています。
もし手もとに何もなければ、お参りのみなさんは、「私たちには意味の分からないお経でも、故人には慰めになるのかな」といった具合に受け止められるかもしれません。決してそうではないと思います。
悲しい中にも、一つでも何か気がつくことがあれば、その助けに少しでもなれば、という気持ちでお勤めしています。そのためには、手もとに本があるということは、私にできる最低限の仕事であると考えています。
これからお通夜のおつとめです。お母さんと別れることとなった息子さんは、病院でお母さんが亡くなっていく様子を見守られたそうです。「あまり痛がらない母が、『えらい、えらい』というので病院に行きました。ベットの上では苦しむこともなく、だんだんと呼吸も弱くなり、眠るようにすぅーっと息を引き取りました。これを諸行無常というのでしょうか」と呟いておられました。
すでにご往生された旦那さんについて、「最初は悲しい、悲しいばっかりだったけれど、時間が経つとありがとうって思えるようになりました」と話されていた在りし日の姿を思い起こしています。
合掌
宗教学者の島田裕巳氏の本を読みました。

葬儀のあり方は社会のあり方に大きく左右されます。著者がいうように人生100年時代を迎えるいま、「いつ死ぬかわからない」という死生観が大きく変容しています。そうなると、「来世に期待をかけ、現世において信仰生活をまっとうしようということにはならなくなる」「宗教への期待は薄れる」としています。
では、彼は生き死にの問題にどのように向き合っていくことを提案しているのか?
テレビ、犬を飼う、歌舞伎、芸術鑑賞などあげつつ、学び続けることがもっとも賢いとすすめています。
そして年を取ったら現実の社会と距離をおくことをよびかけています。「人間は最後、世俗の生活から身を引いて生きる必要がある。世の中を批判的に見ていけば、あらばかりが目立つ。それに一々反応していても、いつまで生きられるかわからないのだから、無駄で無益なことである」
「ただ生きている、やっかいな時代である」
島田さんは直葬や0葬についてたくさん著書を書かれています。世界の宗教の動きにも目を配っておられます。現状の分析としては「そうなんだ」と教えられること大ですが、果たして「人類は宗教を捨てようとしている」という指摘は妥当なのでしょうか。
「真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるものである」。哲学者の西田幾多郎氏(1870-1945)はそのようにいいます(『善の研究』P181)。
私自身は、そうした宗教が、今後、復権する可能性も大いにあるのではと思います。