ブログをみてくださっているみなさん、今年もよろしくお願いします。
先程、雪の中で除夜の鐘をつきました。
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先程、雪の中で除夜の鐘をつきました。
岩美町は雪が降り続いています。紅白も見ないで雪をかく住職です。

コロナに始まり、終息も見通せない中の大晦日です。世界で8000万人以上が感染し、お亡くなりになった人数は176万人を超えました。
もうけと効率を最優先させてきた社会のあり方はこのままでよいのでしょうか?
剥き出しの欲望や煩悩を抑えていかなければ、次世代の人たちに顔向けできません。
私たちは親鸞聖人がいうように煩悩で成り立ち、捨てきれぬ存在です。その自らを直視し、それで果たして良いのかと問い直す必要に迫られているのではないでしょうか。
コロナを経ても変わりませんでした。強いものはより強くなりました、という社会に生きるのか。
ささえあい、つながりあう社会をみんなでつくって生きていくのか。
後者にこそ、「煩悩成就のわれら」の歩む道があるのではないでしょうか。
もちろん、どなたかの創作の漢字ですが、一字で「ぼんのう」と読ませるそうです。

思い通りにならない苦が上にあります。眼・耳・鼻・舌・身・意は感覚や意識を生じさせる六根です。そして好(よい)、悪(悪い)、平(どちらでもい)があり、さらに浄(きれい)、染(よごれ)。画数も108になるとか。よくできています。
親鸞聖人は「煩悩成就のわれら」とおっしゃいます。ですから、鐘をついたくらいでなくなるものではありません。それで昔は浄土真宗で鐘をつくことはなかったそうです。ではなせつくのか? 「他のところがつくからです」と中央仏教学院の先生から聞いて、ちょっと笑ってしまいました。
煩悩成就のわたしではありますが、少しでも離れていかなければどの思いも込めて108回打ちたいと思います。
冷たい風がふきつける30日となりました。
朝、網代道場に行ってお飾りを五具足に。花瓶と蝋燭立が1対、真ん中に香炉です。蝋燭は朱蝋です。花は坊守が立てました。ホワイトボードに2日の修正会の式次第を書いて終了。

ついで本堂のお飾りです。本堂は11月の報恩講の時だけ五具足ですから、三具足。蝋燭は朱蝋です。供花には白い葉ボタンと南天を入れました。

そして外は雪が降ってきました。

最近、家に顔を見せるようになったネコ。
坊守が名前をつけました。
ダブちゃん。

なんだか、ダブっとしています。
もちろん、ナモアミダブのダブです。
別の家では違う名前で呼ばれているかもしれません。
野良猫に餌をあげないのは鉄則かもしれませんが、小さな命がこの寒い時期に健気に生きています。人が近づくと逃げてしまうので、家に入れることは難しいかも。食欲はすごいです。
ナモと泣きあってガラス越しの友情(恋?)を深めています。

せめて寒くないように縁側の軒下を居場所にしてくれるといいのですが。
30日から山陰も寒波襲来のようです。それを見越してか、町内のスーパーは混雑していました。
来月のEテレ『100分de名著』はカールマルクスの『資本論』がテキストになるそうです。10年前にも取り上げられていますから、2回目ではないでしょうか。今回の講師は若手の研究者・斎藤幸平さん。
マルクスは宗教を排斥したとか、一度した使ったことのない「宗教はアヘンである」という言葉を持って誤解をしている方も少なくないかもしれません。マルクスの言うアヘンというのは、鎮痛剤として使われていたアヘンのことを指しています。そのように読めば、「宗教というのは鎮痛剤である」ということです。心の痛みを和らげるものということですから、目くじら立てる必要など全くないのです。しかしながら、浄土真宗関係の書籍の中でも、いまだに誤解に基づく偏見を目にすることがあり、苦笑することがあります。仏教では物事を正しく見ることを正見といいますが、そのように見ることはなかなか難しいのかもしれません。
マルクスは商品経済の仕組みを深く分析し、資本主義社会における搾取をつまびらかにしました。封建時代まで搾取の実態は目に見える形であったのです。農民の取り分はこれ、領主はこれ、と実にわかり易かったのですから。それが見えなくなった資本主義社会において、どのような形で搾取ー搾り取られるのか。資本論の最も大事なところの一つですから、番組でも紹介されるのではないでしょうか。
貧困と格差の拡大、地球的規模での環境破壊、現在の投機的なマネー経済のあり方など、真面目に考えようと思ったらマルクスを勉強するのがよいと思います。
例えば、こんなフレーズが出てきます。「資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」
ブラック企業や過労死の実態をピタリと言い当てていると思いませんか。
実は私自身も、マルクスの『資本論』を数年かけて30代の頃に読みました。ソ連や中国のような社会システムはマルクスは全く想定していません。マルクス、そして盟友のエンゲルスは、資本主義の発達した国が、次の社会を作る条件、人々を生み出し、選挙による多数者の合意によって社会を変えていくと考えていました。
世界的な課題が山積する今、マルクスは再評価される時を迎えているのではないでしょうか。
この社会のままで私たち人類の歴史は終わるのでしょうか。そんな壮大なことも考えることができます。何も宇宙だけが壮大ではありません。人類の未来だって、壮大なスケールでマルクスは見通していますよ。
ご近所では30日からの寒波襲来に備えて雪かきをしている方が目立ちます。
私も朝は雪に埋もれたエアコン室外機周辺の雪をかきました。先日の大雪ではエアコンが全く効かず、外を見ると室外機が雪の中。お寺の裏はいまだ雪の山ですが、少し溶け始めてきたので、ようやく室外機を救出できました。
その後はお寺の仕事をして、町会の仕事を少し。年頭には神社でのお日待ちがあります。酒屋さんにお供え用の御神酒を買いに行きました。
浄土真宗は神祇不拝です。思い通りにならない状況からから抜け出したい、そのために神・仏を拝むことを否定されたのが親鸞聖人です。自分の欲のために神様を利用することはしませんが、神様には敬意をもってお参りすることは大事であると思います。ですから私自身は町会の組長として神社にお参りさせていただきます。
お参りされる予定のご近所さんに、「私は阿弥陀さんに帰依しているので、神社のお参りだけど、なんまんだぶって心の内でつぶやきますよ」と話すと爆笑でしたが、「あんたはお寺だけえなぁ」と理解を得たのでした(たぶん)
神主さんは中学時代の先生でもあります。宮司さんの正装を拝見するのはちょっと楽しみだったりもします。
今日は午前に仏壇を購入されたお宅での入仏法要がありました。ことし新たにご門徒さんにもなられたご家族です。
仏壇はご家族にお亡くなりになった方がいらっしゃらなくてもあって不思議ではありませんが、やはり大半はお亡くなりになったことが機縁だと思います。
お仏壇のお飾りについて、いつもお話しさせていただくのは、阿弥陀さんの話です。そして阿弥陀さんが仏壇の主役になるようにしてください、とうことです。
きょうは小学生の方もいました。
「無量って聞いたことある?」と。「わからない」
これは町内の牧谷に住むKくんという中学生から私も教えてもらった話です。無量は数の単位です。一、十、百、千、万…恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、そして最後は無量となるんです。無量は=アミタ(阿弥陀)です。
大人のみなさんの方が驚かれていました。
無量の光、無量のいのちの世界から、私たちに、精一杯生きてください、必ず救いとっていきますよ、と働きつづけておられるのが阿弥陀さんです。一方の私たちは日々、損得勘定したり、つまらぬことで対立したり、喧嘩したりして生きています。仏さんの願いを仏壇の前で噛み締めるとき、「あぁ、これではいけないな」と自身を振り返ることができる、そこに仏壇の意味があると思います。だから阿弥陀さんが脇役になるともったいないです。
といったお話をしました。
他にも質問にこたえていたらすっかり長居をしてしまいました。
私自身も仏壇について学び直す機会となりました。ありがとうございました。
「やれなかった、やらなかった、どっちかな」(相田みつを)
ある仏教関係の本を読んでいたら、この詩のことを知りました。
コロナ禍の中で過ごしてきたこの1年、どうだったかなあと振り返って見ると、やれなかったことも、そしてやらなかったこともあると考えさせられました。
ただ、私の場合は、「やらなかった」と感じるためにも、本来、やれることがもっとあるはず、と言う情報、知恵をインプットしなければならないと思います。
今日の午前中に、因幡組(そ)の組(そ)長さんのお寺・養源寺さんに用事があって伺いました。さまざまな実践を重ねてこられている住職さんです。今日、話を聞いて、「なるほど」と思ったことがありました。本堂の灯明(ろうそく)はLEDで24時間、スイッチが入れられていること、そして本堂入口の引戸のガラスが透明のタイプになっていて、外から灯明に照らされる阿弥陀さんが拝めるようになっていることです。うちは半透明ですから、外から中が見えません。
写真撮るのを忘れた!!!
あっ、これはいいなあと勉強になりました。
各地のお寺の良いところを吸収させて頂いて、真似るところは真似をしていかないともったいないです。
そんな風に進んでいければ、「やれなかった、やらなかった」と言う問いを前向きに捉えることができるのかなと思った次第です。
1/9〜16日まで御正忌報恩講法要がインターネット中継されます。
西法寺でも集会室で中継を試聴したいと思いますので、お近くの方はぜひお越しください。
お寺での視聴は、基本的に午後の時間としたいと思います。