19日の本番まであとわずか。
あいさつ原稿は、お弁当は、イスは、音響は、花は、と慌ただしくなってきました。
それにしてもいい天気です。
そして5月の風。
鯉のぼりではありませんが、吹き流しが泳いでいます。

19日の本番まであとわずか。
あいさつ原稿は、お弁当は、イスは、音響は、花は、と慌ただしくなってきました。
それにしてもいい天気です。
そして5月の風。
鯉のぼりではありませんが、吹き流しが泳いでいます。

草木が生い茂るばかりだった網代布教所も、造園業のみなさんの手を借りて剪定がすすんでいます。

当初はこんな感じでしたが、だいぶ見晴らしがよくなりました。

お参りに来られた方から、知り合いとの会話の中でお墓をどうするか話題になったという話を伺いました。
お墓は、家が続いていくという了解のもとに受け継がれてゆくものですが、いまそれは急速に崩れつつあります。
家業を継ぐ、家を継ぐということがふつうではなくなりつつあるなか、お墓は心配ごととなっています。
子どもや遺されたものに迷惑をかけたくないので、という相談も先日ありました。
「よく話し合っていただいて」とお願いしつつ、「当院にも納骨堂があります」とお伝えしています。
地域社会と家族の変化がすすむなか、不安に応えられるお寺をつくってゆくことが求められているといえそうです。
寺をきれいに!連休作戦、第4弾!
本堂裏の「翠さんの部屋」の障子を張り替えました。

糊のついた桟の部分に水をつければ、古い紙はきれいにはがれました。
骨だけになったところに、また糊を置き、ロール状の障子紙をつけていきます。
きれいに張れると、とても気持ちのいいものですね。

本日は17回忌のお勤めがありました。
小さな子どもさんたちの姿も。
17年前にはこの世になかったいのちが、今はある。
法事というのは、いのちには縦のつながりがあるということを教えてくれます。
そして同じときを生きる横のつながりを教えてもくれます。
縦と横のいのちのつながりに想いを馳せる機会が法事の場であると思います。
明日は33回忌のお勤めがあります。
法事を催すということは、今あたりまえではありません。
ありがたいことでした。
法事が終わり、小さなお子さんが畳の上で楽しげにハイハイしていました。
お父さんは、「家に畳の部屋がないので、珍しいのかな」。
本堂の畳には、様々な活用方法があるものだと小さなお子さんに教えてもらいました。
鳥取駅前で行われたハト風船のイベントをのぞいてきました。
「ハト風船」は、その名の通り鳩のカタチをした風船です(海外などでは、結婚式などでも使われている)。
2008年の憲法記念日から毎年行ってきたそうです。日本国憲法の誕生を祝い、ひとりひとりの人権を尊重するその精神が行き渡りますように、と願い、決意して、平和の象徴であるハトを飛ばす、というコンセプトでした。

少年少女たちの和太鼓演奏あり、米子市のゴスペルグループのライブあり。
雲ひとつない青空。正午にリリースされた200羽が、ぐんぐん昇っていく様子が、いつまでも見えました。

支配者が時まで支配する。
もともと元号とはそういう意味です。
ですが、親鸞聖人の生きた時代では、かわったことを知るまでにずいぶんなタイムラグがあったようですから、そこまでの縛りは感じさせられません。
好きな人もあまり気にしてない方も、時をも支配することが苦難をしいた歴史があることは知っておかなければなりません。
昭和20年8月15日以前です。この時代、真宗は国家神道に屈し、戦争を美化しました。真宗は、そのあやまりを繰り返してはならないのは、いうまでもないことですが、何度も何度も肝に銘じなければなりません。
その反省から信教の自由を保障した日本国憲法が生まれます。
あすは、憲法記念日です。
令和に変わった日は誰でも知るほどの情報量でしたが、憲法記念日もきちんと覚えておきたいものです。

岩美町内の漁村、網代に西法寺の布教所があります。
網代は、冬は松葉カニ、夏は白イカの水揚げ港として有名な漁村です。
4月初旬のお勤めの際に草を刈り、花壇を覆っていた笹を根から刈り取ってきました。
そして本日、オキザリス、グラジオラス、ヒマワリなどを植え付け。

写真はヒマワリの種です。
うまく芽が出て育ってくれるといいのですが。

布教所の裏の階段を上がると、網代の集落を一望できます。
お寺には本堂と庫裡(くり)があります。本堂とは仏様が安置されています。庫裡は居住スペースでもありますが、門信徒のみなさんが気軽に使っていただける集会所のような部屋もあります。
長年、座卓であった集会所を思い切って椅子と机にすることにしました。
本日、まず椅子が到着。
ベトナムで作られ、輸送され、この地までやってきてくれました。たくさんの人たちの手を借りて。
数年前に話題となった『君たちはどう生きるか』では、「網の目の法則」という話が出てきます。
私たちは気がついていないだけで、実は無数の関係性の中で生きる、生かされている存在である、主人公のコペル君は気づくのです。
この本が書かれたのは戦前のこと。日本が本格的な戦争に突入する手前のことです。
作者はいいたかったのでしょう。誰のいのちも平等、支え合って人は生きていることを忘れてはいけない、と。
そのことを忘れた時、人類は、自分で自分を苦しめる行為に走ってしまいます。
遠い国からやってきてくれた椅子をダンボールから出しているとふと、そんなことを思うのでした。
継職法要までにできる掃除はしておこうということで、かなり暗かった玄関の灯りをLEDに替えました。
すると、気がつかなかった蜘蛛の巣が。
仏教では仏の光に照らされることで、それまで気がつかなかった自分が映し出されるとよくいいます。
見ようともしていなかったものが、見えてくる、といえばわかりやすいでしょうか。
もちろん、そんな大層なものではありませんが、いままで曖昧にしていたところもなるべくきれいにして当日を迎えたいと思います。