今日、鳥取市内で、高校時代の旧友と偶然に再会しました。
私の方は覚えていなかったのですが、、、。
お互いにびっくりしたのはいうまでもありません。
こういう場合は普通「会」うを使うのだと思います。
親鸞聖人は、思いがけない出会い、特に、法然聖人との出会い、阿弥陀仏のみ教えとの出会いを、
「遇」う、という漢字で現されています。
思いもかけず出会うこと、という意味です。
私たちの再会は、果たして会うがふさわしいのか、それとも遇うなのでしょうか。
それにしてもびっくりする出来事でした。
今日、鳥取市内で、高校時代の旧友と偶然に再会しました。
私の方は覚えていなかったのですが、、、。
お互いにびっくりしたのはいうまでもありません。
こういう場合は普通「会」うを使うのだと思います。
親鸞聖人は、思いがけない出会い、特に、法然聖人との出会い、阿弥陀仏のみ教えとの出会いを、
「遇」う、という漢字で現されています。
思いもかけず出会うこと、という意味です。
私たちの再会は、果たして会うがふさわしいのか、それとも遇うなのでしょうか。
それにしてもびっくりする出来事でした。
川崎市登戸で起こった痛ましい事件の報にふれ、強いショックを受けました。
被害に遭われた方たち、ご家族のみなさまの心中はいかばかりでしょうか。
心に受けた傷も大変なものだと思います。
いつもと同じ一日が、こうしたことで奪われてしまう。
無念でなりません。
お釈迦様の言葉を思い起こします。
「己が身に引き比べて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」
そのこころが育っていない。
本当に悲しいことです。
事件の背景や動機の解明
なぜ事件を防げなかったか
私たちが考えなければならないことは
あいまいにせず向き合っていかなければと思います。
カメラマンのMさんより継職法要の写真が届きました。
わざわざ写真集にまで仕上げてくださって恐縮するばかりです。
浄土真宗の最も公式な装束、七条袈裟を着用した僧侶が10人で法要を勤める機会は、そうあるものではありません。
ご門徒のみなさんにもこれから見ていただきたいと思います。


市内で沖縄戦のドキュメンタリーを見ました。
映画として公開をめざしており、最終的な編集はこれからとのことでした。
1945年3月から6月にかけて沖縄県民の3人に1人が沖縄戦で亡くなっています。
当時、子どもだった方たちからインタビューをとり、時系列的に悲惨な沖縄戦の実情を描いていました。
ガマとよばれる壕の中で起こった、親が子どもを手をかけた集団自決という悲惨な出来事も起こりました。
自殺を選んだのではなく、旧日本軍に死を強制された「強制死」だったという告発が胸に突き刺さりました。
以前は仕事でよく沖縄にいく事がありました。
フェンスの向こう側は、日本であって日本ではないという現実があることを知りました。
悲惨な戦争から70年余。沖縄には米軍基地基地が集中し、沖縄県民は反対し続けているにもかかわらず、新たな基地建設が安倍政権のもとで強行されています。
ドキュメンタリーは公開されるかどうかは未定とのことでしたが、ぜひ公開までこぎつけて欲しいと願うばかりです。
そのあかつきには、西法寺でも上映会ができればなあと思います。
5月とは思えない暑さです。
昨日は、継職法要でお世話になったお寺にお礼に伺いました。
どこでも喜んでくださって恐縮するばかりです。
これからの寺院運営のあり方
門信徒の皆さんとのつきあい方
住職の休日をどう確保するか
老いと病について
などなど、多岐にわたってお寺の住職さんと語りあってきました。
そういえば、猫と犬をペットとして飼っているお寺さんばかりでした。
ウチにはおりませんが。
鳥取の東部には浄土真宗のお寺は19あります。
みなさんの実践によく学びつつ、お寺のあり方を見つめていきたいと思います。
昨日、網代のご門徒さんに誘われて習字教室に行きました。
先生は町内のお寺さんです。
僧侶=達筆というイメージぴったりの上手な手本をいただいて真似るという進め方です。
学ぶとは真似るからきているそうです。それが上達への道なのか。
なんとか恥ずかしくない文字を書けるようになりたいのですが。
2週に1回ですから、その間にしっかり復習しないと上達は難しいかなぁ。
先日、テレビを見ていたら、磁石の謎、なぜくっつくのか?を解説していました。
ふだんはバラバラの原子が磁石を向けると磁石の方向を向くのでくっつくということでした。
そういえば親鸞聖人も磁石のたとえを使って教えを説かれていたなあ、どこだったかな?と探していたらありました。
「なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに」と『教行信証』で記されています。
仏様の「必ず救うぞ」のはたらきが私たちを仏様の方向に吸いつけていく、それは磁石のように、という意味でしょう。
仏など関係ないと思って生きている私が、何かをきっかけにして、仏法を聞くように変わっていく不思議さを磁石になってしまった鉄にたとえたのでしょう。
磁石化した鉄は、離れるともとに戻ってしまいますが、仏様はお構いなしに決して捨てないとはたらきつづけます。そうなると、私は磁石でありつづける状態に置かれます。つまり、少しずつ仏様の方に向かって動いていく、少しずつマシな人間になってゆく、そんなふうに教えと私との関係を親鸞聖人は味わっておられます。

ヒトが猫に吸いつけられるのはナゼ。網代にて

網代布教所に植えたオキザリスとヒマワリが芽吹いていました。晴れ続きでどうなるかと心配でしたが、まずはよかった。
仏教では原因があり結果があるということを因果といいます。タネが因でハナが果。水や太陽が縁といえるでしょう。
明日から隔週木曜は終日、網代にいる予定です。布教所をもっと活用するべくみなさんと知恵をだしあえればというところです。
庭の方はやはり草が伸び始めていましたので、さっそく明日は草刈りが必要になるでしょう。
それから、ベテラン世代の方に混じって習字も習うことになったので、少しでも上手な字が書けるようになれば。
もちろん、それだけでなく、さまざまな縁が生まれると楽しいひとときになることでしょう。
新坊守のお父さんお母さんが法要に参詣してくださいました。
法要が終わった日曜の夜、お父さんの亡きお母さんの生前のエピソードを聞かせてもらいました。
「とにかく困った人がいると放っておけない」
「誰に対しても分け隔てがない」
裕福ではなかった暮らしのなかで、貧しい人、困っている人がいれば当たり前のように助ける、そんな方だったそうです。
そして、そのことを一切、鼻にかけないでやってしまう。
「あんなに慈悲深い方に出会えたことに、いまでも感謝している」とお母さんはおっしゃっていました。
なかでも、お父さんの友人が、精神的に不安定になった時、お母さんが1年半に渡って身の回りの世話をしたという話には、本当に驚かされました。
以前にも少し書きましたが、「恩」という言葉には「私のためにしてくださったことを覚えておく」という意味があります。
そしてその受けた「恩」は到底、受けた人に返せるものではない。
だから、覚えておいて、次の世代の人たちに「報」らせていくことが大切。
「恩」と「報」は仏教にとっても大切な精神です。
亡きお母さんの思い出話を聞きながら、受けた「恩」は、坊守のお父さん、お母さんの生き方にもつよく影響を与えたのだなあと感じた次第です。
本当にありがたいお話でした。
地域の高齢者の居場所として運営されている「おしゃべりカフェ」(鳥取市内)が3周年を迎えたと聞き、見学に行きました。
会場は個人宅。開始当初は名の通り、お茶を飲みながらおしゃべりする場でしたが、昨春から昼ご飯の提供も始まりました。ひとりより大勢の方がご飯がおいしく、食事量も増えるそうです。
高齢者の食事会は増えていますが、このカフェのように毎週開催は、まだ珍しいとのことでした。「毎週あるからいいわよ」と90歳のNさん。この方の他に、90代の方が何人もおられました。
今日は社協や近所の病院職員も立ち寄り、総勢50人に。
鳥取弁を教えてもらいながら、みんなで食べるカレーの美味しかったこと!
参加費は、昼ごはんあり200円、お茶だけなら100円です。
お寺でもやれないかしら?(坊守)
