昨日の法事のあとの話です。
私より2歳年下の方から、「小さい頃、母親に、『なんでこんな名前にしただあ?』と聞いたことがあって。そしたら、『岩井のお寺さんにつけてもらった』というだが」と。当時、お母さんはよくお寺にお参りされていたそうです。
50数年前のことですから、おじいさんがつけたということになります。
その方(Aさん)の名前には「欣」という文字が使われています。喜ぶという意味の漢字です。
私からは「仏教用語の『欣求(ごんぐ)浄土』からおじいさんがとったんでしょうかね?」と。お浄土を心から願い求めるという意味です。
自身の名前の意味を知って、「今日は来てよかった」と喜んでおられました。
そして今日の朝。いつものように経本を開いたのですが、たまには親鸞聖人が記した『教行信証』を読んでみるかなと手に取って読み始めました。
すると、こんな言葉が刻まれています。
「穢を捨て浄を欣ひ行に迷ひ信に惑ひ」
原文は漢文です。
「捨穢欣浄、迷行惑信」
現代語に直すと、「汚れたこの世界を捨てて、清らかな世界を求めながら、あれこれの修行に迷い、信じることに思い惑い」となります。
何度も目にしていたはずなのに、今日、はじめて目にしたような感覚でした。
おじいさんはこちらから名前をとったのではないかと思ったのです。
求めながらも迷う。これが人のありようです。
だからこそ、南無阿弥陀仏で救っていくのだと阿弥陀仏は誓われ、その教えに今生で出会えた喜びを親鸞聖人は続けてつづっておられます。
生まれてきたばかりの赤ちゃんに、「南無阿弥陀仏ですよ。南無阿弥陀仏を喜ぶ人になってくださいよ」とおじいさんは願われたのか。
昨日のことを思い出しました。Aさんは私とともに大きな声で、「なんまんだぶ」と称えておられたのです。
「その通りになりましたよ。おじいさん、いい仕事されたなあ」と朝からうなっていました。