会議で北栄町へ行ってきました。
こちらにきて自動車運転を始めた私にとっては、最長の西行きです。通勤で毎日往復40キロ走っていますが、土地勘もないので、会議よりも運転が気になっていました。
「開通した道路が早いよ」と、職場のみんなが言いましたが、海を見ながら走りたくて、ひたすら旧道沿いに。
復路は早く我が家に帰りたくて、新しい道を選んだところ、本当に早い!
時間短縮か、海の景色か…次に西行きの機会があったら、かなりルート選択を悩むと思います。早さばかり求める世の中では残念なのですが(坊守)
会議で北栄町へ行ってきました。
こちらにきて自動車運転を始めた私にとっては、最長の西行きです。通勤で毎日往復40キロ走っていますが、土地勘もないので、会議よりも運転が気になっていました。
「開通した道路が早いよ」と、職場のみんなが言いましたが、海を見ながら走りたくて、ひたすら旧道沿いに。
復路は早く我が家に帰りたくて、新しい道を選んだところ、本当に早い!
時間短縮か、海の景色か…次に西行きの機会があったら、かなりルート選択を悩むと思います。早さばかり求める世の中では残念なのですが(坊守)
東日本大震災ののち、ある評論家の方が、こんなことを書かれていました。
絆とは、家畜をつなぎとめるための手綱がそもそもの意味である。
中国の漢字にはなく、中国の漢字を当てるのならば、伴である。
それを知って、半分(半人前)の人の横になって支えること、それを本来、「きずな」というのかなと思ったものです。
最近、トランプ米大統領と「絆」を深めたと言って喜んでいる安倍首相の姿をニュースで目にしました。
1機100億円以上もする戦闘機を100機以上購入することで深まる「絆」ってなんなのでしょうか?
あっ、もしかして、これは、文字通りの意味ではないかと。
安倍さんが、どんな真意で絆を使っているのかは存じあげませんが。
ところでいま、本願寺派は、「絆からご縁へ」と言っています。
ご縁というのは、つながりであり、相手との共生・協力をいうのだと思います。
そこには上下関係も、媚びへつらいもありません。
そっちの方がいいなと私は思っています。
今日、鳥取市内で、高校時代の旧友と偶然に再会しました。
私の方は覚えていなかったのですが、、、。
お互いにびっくりしたのはいうまでもありません。
こういう場合は普通「会」うを使うのだと思います。
親鸞聖人は、思いがけない出会い、特に、法然聖人との出会い、阿弥陀仏のみ教えとの出会いを、
「遇」う、という漢字で現されています。
思いもかけず出会うこと、という意味です。
私たちの再会は、果たして会うがふさわしいのか、それとも遇うなのでしょうか。
それにしてもびっくりする出来事でした。
川崎市登戸で起こった痛ましい事件の報にふれ、強いショックを受けました。
被害に遭われた方たち、ご家族のみなさまの心中はいかばかりでしょうか。
心に受けた傷も大変なものだと思います。
いつもと同じ一日が、こうしたことで奪われてしまう。
無念でなりません。
お釈迦様の言葉を思い起こします。
「己が身に引き比べて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」
そのこころが育っていない。
本当に悲しいことです。
事件の背景や動機の解明
なぜ事件を防げなかったか
私たちが考えなければならないことは
あいまいにせず向き合っていかなければと思います。
カメラマンのMさんより継職法要の写真が届きました。
わざわざ写真集にまで仕上げてくださって恐縮するばかりです。
浄土真宗の最も公式な装束、七条袈裟を着用した僧侶が10人で法要を勤める機会は、そうあるものではありません。
ご門徒のみなさんにもこれから見ていただきたいと思います。


市内で沖縄戦のドキュメンタリーを見ました。
映画として公開をめざしており、最終的な編集はこれからとのことでした。
1945年3月から6月にかけて沖縄県民の3人に1人が沖縄戦で亡くなっています。
当時、子どもだった方たちからインタビューをとり、時系列的に悲惨な沖縄戦の実情を描いていました。
ガマとよばれる壕の中で起こった、親が子どもを手をかけた集団自決という悲惨な出来事も起こりました。
自殺を選んだのではなく、旧日本軍に死を強制された「強制死」だったという告発が胸に突き刺さりました。
以前は仕事でよく沖縄にいく事がありました。
フェンスの向こう側は、日本であって日本ではないという現実があることを知りました。
悲惨な戦争から70年余。沖縄には米軍基地基地が集中し、沖縄県民は反対し続けているにもかかわらず、新たな基地建設が安倍政権のもとで強行されています。
ドキュメンタリーは公開されるかどうかは未定とのことでしたが、ぜひ公開までこぎつけて欲しいと願うばかりです。
そのあかつきには、西法寺でも上映会ができればなあと思います。
5月とは思えない暑さです。
昨日は、継職法要でお世話になったお寺にお礼に伺いました。
どこでも喜んでくださって恐縮するばかりです。
これからの寺院運営のあり方
門信徒の皆さんとのつきあい方
住職の休日をどう確保するか
老いと病について
などなど、多岐にわたってお寺の住職さんと語りあってきました。
そういえば、猫と犬をペットとして飼っているお寺さんばかりでした。
ウチにはおりませんが。
鳥取の東部には浄土真宗のお寺は19あります。
みなさんの実践によく学びつつ、お寺のあり方を見つめていきたいと思います。
昨日、網代のご門徒さんに誘われて習字教室に行きました。
先生は町内のお寺さんです。
僧侶=達筆というイメージぴったりの上手な手本をいただいて真似るという進め方です。
学ぶとは真似るからきているそうです。それが上達への道なのか。
なんとか恥ずかしくない文字を書けるようになりたいのですが。
2週に1回ですから、その間にしっかり復習しないと上達は難しいかなぁ。
先日、テレビを見ていたら、磁石の謎、なぜくっつくのか?を解説していました。
ふだんはバラバラの原子が磁石を向けると磁石の方向を向くのでくっつくということでした。
そういえば親鸞聖人も磁石のたとえを使って教えを説かれていたなあ、どこだったかな?と探していたらありました。
「なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに」と『教行信証』で記されています。
仏様の「必ず救うぞ」のはたらきが私たちを仏様の方向に吸いつけていく、それは磁石のように、という意味でしょう。
仏など関係ないと思って生きている私が、何かをきっかけにして、仏法を聞くように変わっていく不思議さを磁石になってしまった鉄にたとえたのでしょう。
磁石化した鉄は、離れるともとに戻ってしまいますが、仏様はお構いなしに決して捨てないとはたらきつづけます。そうなると、私は磁石でありつづける状態に置かれます。つまり、少しずつ仏様の方に向かって動いていく、少しずつマシな人間になってゆく、そんなふうに教えと私との関係を親鸞聖人は味わっておられます。

ヒトが猫に吸いつけられるのはナゼ。網代にて

網代布教所に植えたオキザリスとヒマワリが芽吹いていました。晴れ続きでどうなるかと心配でしたが、まずはよかった。
仏教では原因があり結果があるということを因果といいます。タネが因でハナが果。水や太陽が縁といえるでしょう。
明日から隔週木曜は終日、網代にいる予定です。布教所をもっと活用するべくみなさんと知恵をだしあえればというところです。
庭の方はやはり草が伸び始めていましたので、さっそく明日は草刈りが必要になるでしょう。
それから、ベテラン世代の方に混じって習字も習うことになったので、少しでも上手な字が書けるようになれば。
もちろん、それだけでなく、さまざまな縁が生まれると楽しいひとときになることでしょう。