指揮者のいない音楽

今日は年頭に懇志を寄せていただいたご門徒さんへの受領書を作成し、その後、網代のご門徒さんに網代道場のお下がりの餅を届け、帰りにホームセンターにより、さらにその隣スーパーで買い物です。ホームセンターではおひとり、スーパーではお2人のご門徒さんとお会いし、新年のあいさつを交わしました。町内で買い物をするときは、常に知っている人はいないかとアンテナをはっています。段々と顔のわかる方が増えているということでしょうか。

午後2時からはインターネット中継で本願寺の報恩講を視聴しました。明日以降も16日まで法要は続きます。

本願寺の報恩講は雅楽が入るので、厳かな雰囲気が漂います。雅楽には指揮者がいません。演奏者同士が息をあわせて音を作っています。自分の音と相手の音が響きあうお浄土の世界を想わせるのが雅楽の素晴らしさです。

親鸞聖人は、
「清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは いつつの音声(おんじょう)いだしつつ 宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり 清浄薫(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし」との和讃を詠まれました。

宮と商とは音階のことです。西洋音楽に当てはめると宮はド、商はレです。共鳴するはずのない音同士さえ見事に調和している世界がお浄土なのですよと親鸞聖人はおっしゃっています。

雅楽の音色を聴いていると、排除や差別がなくならないシャバ世界のありようは本当じゃないんだぞと仏さまが語りかけてくださるような気がしてきます。

投稿者: 西法寺

西法寺のHPを管理している釈大朗です。よろしくお願いします。

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