今日のご法事で、久しぶりに『阿弥陀経』を読みました。このお経は、お釈迦さまが阿弥陀仏のみ教えを1250人の高僧方に説法するという内容です。阿弥陀仏とは、量ることのできないいのち(無量寿)をもち、さえぎられることのない光(無量光)を放つ仏様です。その救いを信じてお念仏するものは、みな救っていく、という教えです。
なぜ、そんなことを阿弥陀仏は誓われたのでしょうか。それは、私たちが煩悩を捨てきれない人間であるからです。その私たちを救っていくためには、改心を待っていては間に合わない、だからこそ、自ら救っていくのだということです。
煩悩とは、貪りの心、怒りの心、自分本位に物事をとらえる心のことです。自分の心というものはなかなかコントロールが難しいものです。みなさんはそう思いませんか。
『阿弥陀経』には、印象的な言葉がたくさん出て参ります。
「共命鳥」(ぐみょうのとり)。この鳥は、体は1つ、頭(首)が2つある奇妙な鳥です。首同士、仲が悪く、しょっちゅう争っています。あるとき、片一方の首の方がもう一方の首をかみみってしまいました。これで自由になれたと思ったら、自らも死んでしまいます。体は一つしかないのですから。この鳥はお浄土で、「あなたがあるからこそ私がある」という真実を歌っています。
時として、人間の激しい煩悩は相手を傷つけてしまいます。その最たる例が、戦争ということになるでしょう。いま、プーチン政権は、侵略を禁ずる国際ルールに真っ向から背いてウクライナ国土で破壊の限りを尽くしています。この戦争によって、ヨーロッパ、そして世界は不安定化しています。日本政府や自民党などの中からは、防衛費をGDPの2%水準に引き上げる、攻撃される危険のある時は相手国の敵基地や政府の中枢部を先制攻撃できるようにするなどという発言も相次いでいます。仮に現実のものとなれば、東アジアはいっそう不安定になることは確かでしょう。
親鸞聖人は、「さるべき業縁もよおさば、いかなるふるまいをもすまじ」とおっしゃいます。私たちが人を殺さないのは、いい心があるからではなく、そういう関係性にいないからである。もし、そのような関係性の中に置かれれば何をしでかすかわからない、それが人である、とおっしゃいました。
そういう面がある私たちであるからこそ、阿弥陀仏は私たちを放っておけないのではないでしょうか。私自身は、仏さまが悲しまれるような選択は決してしてはならないと思って生きています。
2件の法事が終わり、日本国憲法を通して読みました。
歴史の大きな曲がり角に私たちは立たされているのだ、と自覚する今日の憲法記念日です。