旧暦の2月15日(新暦3月15日)は、釈尊(お釈迦さま)入滅の日と伝えられています。
釈尊が明らかにしたことは、私たちの苦しみ(思うにまかせないこと)の根本的な原因が「無明」=人間の奥深い愚かさであり、喉が乾いた時に水を必死で求めるような「渇愛」という激しい欲望にあることを発見しました。そして、釈尊も、その弟子たちも、戒律を守り、禅定(瞑想する事)を深め、智慧をみがき、無明を叡智に転じ、渇愛をコントロールすることによって、現世での苦しみから抜け出すことを目指しました。
当初、釈尊は説法を拒んだと伝えられています。「法を説いたとしても、他の人々は私のいうことを理解してくれないだろう」。なぜなら、「貪りと瞋(いか)りに打ち負かされている者たちは、この理法をさとることができないからだ」(カッコ部分は、仏典『ヴィナヤ・ピタカ』より)
しかし、釈尊は衆生への説法を決意します。ご自身の心の中の葛藤が、有名な梵天の勧請です。古代インドの神(梵天)が、釈尊に説法をするように三度要請し、ついに決意するというお話です。釈尊は、葛藤の末、説法を始めることを決断されました。
「世尊が仏眼をもって世間を観察したところ、衆生には汚れが少ない者も、汚れが多い者も、鋭敏な者も、鈍重な者も、性根の善さが様相に表れている者も、性根の悪さが様相に表れている者も、導きやすい者も、導きにくい者もおり」(同上)
さまざまなタイプの人がいる中で、導きやすい者から説法していこうと決意されます。「耳を持った者たち、その者たちに、甘露の門は開かれた」「(それまでの)信仰を捨てよ。人々を悩害するおそれがあると考え、私は勝れた法を説くことを躊躇っていたのだ」(同上)。
意外に思う方がいらっしゃるかもしれませんが、みんなを最初から救おうと思い、説法を始めたのではありません。釈尊がどんなに慈悲深いお方であったとしても、「聞く耳」が全くない人に語っても届きません。まずは「聞く耳」をもった人からです。ただし、仏教は「諸行無常」の教えです。いつまでも「聞く耳がない」ののかといえば、そうとも限りません。この私もそうでした。全く聞く耳などなかったのに、いまこうして聞いているのですから、変わりうるのです。
このブログを読んでくださっている方は、もちろん「聞く耳」を持っていらっしゃる方ですから、どうか安心してください。
釈尊の生まれた日は4月8日、悟りを開いた日は12月8日、そして入滅の日は2月15日。ぜひ覚えておいてくださいね。
【本日の原稿を書くにあたって、『ここにしかない原典最新研究による 本当の仏教』(鈴木隆泰著、興山舎)を参考にさせていただきました】