『人は死んだらどこに行けばいいのか』

『人は死んだらどこに行けばいいのか』(佐藤弘夫著)というタイトルの本を数日かけて読みました。
各地の史跡や神社仏閣をめぐり、過去の人びとが、死んだあとどこをめざしていたのかを解き明かしていく内容です。

大変勉強になりました。以下、関心を持って読んだ内容について少し。

中世において個人の墓はほとんど存在しません。墓参りもなかったそうです。当時の人々にとって最も重要な関心は、浄土への往生でした。「この世を遠い浄土に到達するまでの仮の宿り」と見るというのが中世の世界観だったということです。空海が開いた高野山、その「奥の院」への納骨が中世ではブームとなったそうです。真言宗は密教ですから意外に思ったのですが、浄土の仏たちは、娑婆世界に降り立ち、衆生を往生させるために働くという考え(「垂迹」といいます)が広がり、空海もその有力な一人と考えられていたそうです。それが江戸時代になると、同じ奥の院でも、戦国武将のお墓が作られるようになります。著者は、「匿名化する中世の死者から、記憶される近世の死者への転換」と記しています。

江戸時代になると、「来世での救済よりも、この世での幸福の実感と生活の充実を重んじるように」なり、他界観が劇的に変化したそうです。救済者としての仏は後退し、それに代わって死者供養の主役は遺族がつとめるようになります。「家」(いえ)の観念が庶民まで浸透し、家ごとのお墓が定着し始めます。17世紀の日本では、都市の内部に大量のお寺が計画的に造られ、本堂と墓地がワンセットで造られていることに特色があるそうです。また、お墓参りや、お盆の精霊棚が設けられるようになったのも江戸時代からで、「死者と生者との定期的な交流が、国民的儀式として定着し」ました。

そして現代です。「死は忌避すべき暗黒の領域と化し、死に行く者を少しでも長くこちら側に引き止めることが現代医療の目的となりました」「生と死を峻別する近現代に固有の死生観が存在する」からです。また、江戸時代から続く伝統的な家制度が大きく変容し、孤人化社会が進んでいます。著者は、日本人が長年に渡って共有してきた生と死に関わる言説そのものが急速に説得力を失いはじめている」ことをあげ、かつ「死の儀礼と文化をもたない民族は、いまだかつて地球上に存在しませんでした」と強調します。そして、「どのような死者との関わり方が可能なのでしょうか。私たちはいま、死者から重い問いを突きつけられているのです」と本を結んでいます。

投稿者: 西法寺

西法寺のHPを管理している釈大朗です。よろしくお願いします。

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