大きな世界と小さな世界

今日のご法事には小中学生がお参りでした。プリントをつくって次のようなお話をしました。

親鸞聖人が書かれた『正信念仏偈』『和讃』には、漢字圏の数の単位が出てきます。

冒頭に「無量」、2行目に「不可思議」とあります。この二つはとても大きな単位です。

一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 (がい) 穰(じょう) 溝(こう) 澗(かん) 正(せい) 載(さい) 極(ごく) 恒河沙(ごうがしゃ) 阿僧祇(あそうぎ) 那由他(なゆた) 不可思議(ふかしぎ) 無量大数(むりょうだいすう)

大きな単位・数は、私たちのいのちは数え切れないくらいのつながりの中にありますよ、ということです。親と子、友人、知人など人間同士の関係はもちろん、顔も名前も知らない人たちの仕事によって、私の生活は成り立っています。人間と自然の関係もあります。水や空気がなければ私たちは生きる事ができません。あなたがあるからこそ、私がある、ということですね。ところが人間はそのことを忘れて自分本位に振る舞いがちです。環境破壊、紛争や戦争をするのは人間だけです。無量、不可思議のいのちに支えられて、私はある。そのことに感謝し、手をあわせたいものです。

小さい方(少数)は、どうなるでしょうか。
分(ぶん)、厘(りん)、毛(もう)、糸(し)、忽(こつ)、微(び)、繊(せん)、沙(しゃ)、塵(じん)、埃(あい)、渺(びょう)、漠(ばく)、模糊(もこ)、逡巡(しゅんじゅん)、須臾(しゅゆ)、瞬息(しゅんそく)、弾指(だんし)、刹那(せつな)、六徳(りっとく)、虚空(こくう)、清浄(せいじょう)、阿頼耶(あらや)、阿摩羅(あまら)、涅槃寂靜(ねはんじゃくじょう)

お聖教から清浄、塵、刹、涅槃、寂静、虚空などを見つける事ができます。
前に立っておられる阿弥陀さまは、煩悩(むさぼり、怒り、自分本位の考えや行動)のない世界からこの私を見つめていらっしゃいます。そして、この私たちが煩悩を捨てきれないことをご存知です。虚空、清浄といった小さな単位は、煩悩がほとんど存在しないということです。そして涅槃寂静は全く存在しない。そういう世界から、私たちを見つめ、心配されています。なんとか救いとりたいと願っておられます。南無阿弥陀仏は、仏さまからのメッセージ、必ず救うぞという呼びかけです。そう気付かされると、やはり手があわさるのではないでしょうか。

法事の後、ご家族に内陣に入っていただいて、阿弥陀さまが私たちを心配し、救いとりたいと前屈みになっておられる姿を見ていただきました。

お参りの小学生は、ちょうど数の単位を覚えようとしていたとのことで、プリントを持って帰ってくれました。

またぜひお参りください。

 

投稿者: 西法寺

西法寺のHPを管理している釈大朗です。よろしくお願いします。

“大きな世界と小さな世界” への 2 件のフィードバック

  1. 須臾、という言葉が仏教から来ている事を知りました。
    もう50年にもなりますが、お花を習っていた時に、サンシュユ、という花があり、確かにとても小さな黄色の花が三つ付いていたように思います。
    何故かとても嬉しくなりました。

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    1. 限りなく大きく、また限りなく小さい。そのような世界を古代のインドの人たちは想像したのでしょうか? コメントありがとうございます。

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