葬儀とお寺での還骨法要が終わりました。この2日間、ご遺族とともに南無阿弥陀仏と口にする機会が多くありました。阿弥陀とはもともとインドの言葉です。漢訳のさい阿弥陀、そして無量と翻訳されました。「ア」とは今日私たちが使うN Oという意味があります。「ミタ」は、今日使うメートルの元々の言葉です。アミダ=阿弥陀=無量、つまり「量ことができません」。私たちのいのちは、量ことのできないいのちに支えられ、育まれて今、ここにあります。
葬儀で読誦する『正信念仏偈』は、「帰命無量寿如来」と始まります。無量とは数の単位でもあります。10の68乗。これより先はありません。それほどのいのち、そして光によって私たちは支えられています。本堂の内陣の金色は、いのちの輝きです。みな光り輝いています。
振り返ってみて、私たちは誰もが輝けるいのちを生きているのでしょうか。仏さまは、私たちの危うさを重々ご承知です。だからこそ、座っておられません。前屈みになって、いま、救おうとされている。そのことに気がつかされたら、私たちの生活に、ふだん言動に、少しずつであっても変化が起こるのではないでしょうか。人と人の間にある垣根を取り払って、お互い様、おかげさまで生きていこうという道です。気付かされて口から出てくるのが、南無阿弥陀仏・なんまんだぶです。なるほどそうだったのか、と深く納得させられた時、お念仏というものは自然と出てくるのではないかと思うのです。
ご往生されたご門徒さんは、老人ホームでお経を称えることを日課にされていたと伺いました。本は置いてなかったそうですから、誦じておられたようです。幾千万回お念仏を称えられたことでしょう。
念仏を称えるとはどういうことなのでしょうか。この世の中から念仏が消えつつあることは何を意味しているのでしょうか。
故人様のご葬儀にお参りさせていただくことを通じて、私自身、何が真実なのかを教えていただいたように思いました。
合掌