今日は町内に西法寺通信を配って回り、昼からは明日のコンサートの準備で駐車場の草刈り(終わらず!)、コンサートの際にステージ後ろに掲げる横幕を筆で書いたりしています。
その合間、市内の葬儀会社の方がお見えになりました。
この夏に、直葬のお勤めを依頼されたことがありました。直葬というのは、通夜・葬儀を行わず、火葬することです。鳥取市内でも1割をこえたと聞きました。私の場合は、火葬場での読経を依頼されたのですが、それでは申し訳なく、葬儀会館で短い読経をし、法名の意味について少しお話をして、火葬場でも短い読経をしました。
その後、この会社の方から、お寺の本堂で葬儀を勤めた場合にどの程度の料金がかかるのか見積もりをいただいたことがありました。
また後日、詳しくお話をうかがうことになったのですが、こんな話を教えてくれました。この間、経済的理由で、葬儀にお寺を呼ぶことができないという方があったそうです。菩提寺のお寺さんにそのことを伝えると、住職さんが、「本堂で葬儀を出しましょう。お布施は結構です」とおっしゃったそうです。そして、住職さんがいわれる通りの葬儀が執り行われたとのことです。
そういう僧侶の方は少なくないと、私は思います。何のために袈裟を身にまとっているのか、多くの僧侶のみなさんは、自身に問いかけておられます。ある僧侶の方が教えてくださいました。「道ゆく人で僧侶に頭を下げる方がいます。なぜだか分かりますか? あなたに頭を下げているのではありません。その黒いお袈裟に頭を下げられているのですよ」と。時々、この話を思い出して、自分の黒い袈裟を眺めることがあります。
袈裟は仏教に帰依した僧侶が身にまとうものです。
仏教とは何か。「『人の痛みがわかる人間になれ』ということです」
僧侶になったばかりの頃、ある僧侶の言葉に出会い、なるほど、そういうものかと感心しました。
「人の痛みが分かる人間になれよ」と、本堂の阿弥陀さんはいつも私に問いかけてくださっています。ところが、それに気が付かないで日々、過ごしているのです。
本堂で葬儀を出された僧侶の方は、檀家の方の心の痛みを察したに違いないのです。
おかげで大事なことを思い出しました。