惣ということ

本願寺の宗学院から本が届きました。宗学院というのは、浄土真宗の教えを学ぶ場です。

論文集ですから読み通すには、かなりの気合と時間が必要です。

その中に、一般にも開かれた講座を起こした講演録がありました。それなら読めるかなと、午後、目を通しました。

今日のブログは長いですし、明るい話ではないことをお断りしておきます。

宗学院の講師をつとめる浅田恵真さんが、「現代若者の宗教心」について講演したものです。浅田さんが大学のゼミ生と、「どうして人を殺してはならないか」というテーマで討論したことがが語られています。そして、浅田さんは仏教の視点から学生に問題提起をされています。

その学びの最中に、一人のゼミ生が自死するという痛ましい出来事に直面するのです。浅田さんとゼミ生は葬式に参列します。そこで、息子さんの頬をずっと撫でているお母さんの姿がゼミ生たちの胸を打ち、命について真剣に向き合うことになるのです。

その後、亡きゼミ生を偲んで追悼集がつくられました。そこにつづられた学生の手記が胸を打ちます。

友との悲しい別れを通して、学生のみなさんは与えられた命の尊さに気付かされたのです。

この浅田さんのお話は、『生かされて生きる〜どうして人を殺してはいけないのですか〜』という本に書かれているそうです。

この本を読まれた京都拘置所の教育官の方から「殺人を犯した受刑者に、この本の内容を講義して欲しい」との依頼があり、浅田さんは意を決して3人の若い殺人犯に講義することになります。

浅田さんは受刑者に問いかけます。「人を殺すという何がダメなんですか?」。

実際に殺すことがダメですか?(身業しんごう)口に出すことがダメですか?(口業くごう)心の中で殺したいと思うことがダメですか?(意業いごう)

3人ともに「実際に人を殺すこと」と答えます。

浅田さんは、「私がここにきたのはあなた方が自らの罪に対して心の底から改心するように自覚を促すことが目的です。心の中では人を殺しても良い、それは自由だと思っておれば到底改心しているとは思えません。口に出すこともダメ、心の中で考えることもダメなんです。これを身業・口業・意業とも言いますが、業とは『おこない』とか『行為』という意味です。口で言うことも『口業』と呼んで行為と見るのです。心で考えることも行為なのです。これが『意業』です。仏教は特に『意業』を重要視します。身業も口業も意業からの働きかけなのです」と話します。

受刑者の一人は、「感情の高ぶりで行動に移してしまう私には、この仏教の考えは、自分を変える現時点で大切な視点になるのではないかと思います」と感想文に記しています。

「心は目に見えないから度外視しても良いと考えていた受刑者たちが心の大切さを認識してくれたのです」(浅田さん)。

最後に浅田さんは受刑者にたいへん味わい深い話、激励をされています。

惣という漢字について取り上げた浅田さんは、この漢字が、物と心のから出来ていること、この惣は当用漢字にはなく、総があてられることを説明します。そして、「物と心で総てなのです。物だけが総てだと判断しないでほしい、その基本には心があるのです。これからも決して心を亡くさず、落ち着いて行動してください」

そして、少しでも仏教に触れて欲しいという思いから、話の最後にこう伝えられたそうです。

「この獄中で君たちに考えてもらいたいことがある。人間に生まれてきた真の目的は何か。これを考えてほしい。人を殺すために人に生まれてきたわけじゃないだろう。だから、人間に生まれてきた本当の目的をしっかり考えて出所してください」

胸が熱くなる浅田さんのお話でした。

投稿者: 西法寺

西法寺のHPを管理している釈大朗です。よろしくお願いします。

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