オリンピックに出場した選手が、SNS上で受けた誹謗中傷について、「(五輪に)反対する人も知っているし、もちろん分かるし。だけど(誹謗中傷は)見たくなくても見てしまう、勝手に入ってきてしまう、すごく残念だなって、悲しかったな」と涙ながらにコメントされたそうです。コロナ禍のもと、スポーツに打ち込むことも厳しい環境に置かれた選手に冷や水を浴びせる。面と向かってではなく、匿名のネット上で。これは、陰湿ないじめではありませんか。
「あなたと意見は違うけれどもそれを擁護する」というのが民主主義の基本ではないのでしょうか。
私自身も、コロナ禍の中でのオリンピック開催には反対でした。コロナに対処するために、フェアな環境で勝負をするために、ただちに中止・中断するのが良いのではと思います。かといって、頑張っている選手を責めようなどという気持ちは全くありません。
日常生活の上で付き合いのあるもの同士であったならば、誹謗中傷を浴びせることがほぼできないでしょう。自分の素性をさらさずに相手を攻撃する、そんなことのために、この技術は作られたのではありません。欲求不満を解消する道具ではないのです。
「こんなことをしたら相手の方はどう思うだろうか?」という自制が効かない人がなぜいるのでしょうか。
昔なら、「そんなことをしたら仏さんが悲しむで」と言ってくれる方がいたのかもしれません。大きな存在の前に、自分の小ささを知る機会があったということでしょう。今そんなことを言ってくれる方がいればありがたいことです。逆に、自我ばかりが大きくなっているような人と出会って唖然とさせられた経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。いや、もしかしたら自分もその一人かもしれないのです。
敵と味方、優と劣、美と醜。二項対立で捉えがちの私たちと違って仏の尺度は、「将来、みんな仏となる大切ないのちを生きている。だから、みな平等」です。むさぼりや、怒りや、自分中心の見方で生きるのではないぞ、それに気付けよ、気付けよと私に対してよびかけ、働きかけ続けているのが仏なのです。みなを救いとることができるのなら、自分は毒の中に身を沈めても後悔しない。それを仏のお慈悲と言うのです。
私は、この見方に出会ったとき、恥ずかしさと共に、ああ、これなら多くの人が救われるのではないかと思いました。2500年間、人のこころを見つめ続けてきた仏教というのは、侮りがたしなのです。
人をののしって生きる人を仏教では畜生といいます。世間で「頭のいい人」と言われる人たちの中にも見受けられます。獣のことではありません。
ともあれ、選手、そして個人への誹謗・中傷からガードする仕組みを作ることも、この機会に整備して欲しいと願います。
この人はなぜそんな事をするんだろう?と思った時、私は、いつも何故か反射的に、その背景について知りたくなってしまうのです。どんな風に育ち、どんな体験をしてきたのか…
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そういうふうに考えていくと、あまり腹も立たないですよね。
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