今日法事がありました。
2年前のきょう、うちのお寺のご門徒さんの縁者の方が大阪で亡くなられました。身寄りに乏しく、生前、年賀状のやりとりはしていた親戚を頼られたそうです。もしもの時には葬儀をだしてくれないか、遺骨は実家のお墓にいれてくれないかとお願いされていたそうです。親戚の方は快く引き受けられ、7月4日、大阪で葬儀を勤めました。参列は親戚ご夫婦2人でした。
葬儀の後、収骨までのあいだに故人との関わりを話してくださいました。
「お見舞いに行くと病室でいうんです。『私の人生とはいったいなんだったんだろう』と。私いったんです。『尊い人生でしたよ』」
こういう方がいて本当によかった、ご苦労の多かった人生だったかもしれないけれど、まかせる、頼りにできる方と最後に会うことができたんだなあと胸を打たれました。
私自身、人はなぜ死ぬのか、なんのために生きるのか、葬儀ってなんのためにするのか、深く考えさせられる1日でした。
その後、納骨、お盆参り、一周忌、お墓の改修とご夫婦とお会いする機会があり、その度に葬儀のことを思い出すのでした。
きょうの法話では、次のようなことをお話ししました。
いただいたいのちはいつか捨てなければいけない。だからこそいのちは尊く、ありがたい。
失われたいのちに、ひざまずき、手をあわせることで人は悲しいという気持ちを育て、人間になった。
どんなつながりであっても、そのつながりを大切にすることで、気づかされ、人として鍛えられることがある。
ふだんは考えることのない死んだらどうなるのかという問いが仏の教えに出会うきっかけになる。
説法というより、この私が葬儀から学ばされたということです。
僧侶というのは、黒い服を着て、袈裟をかけ、お念珠を手にすることで、ふつうならあまり聞くことのない尊い教えに、言葉に出会うことがあります。それを忘れずに記憶して生きていくことを仕事にしているのだと思います。お2人との出遇い、故人との出遇いから私自身、深く学ばされています。