昨年、厳しい別れを体験されたご家族の一周忌のお勤めがありました。法事の終わりに施主さんのごあいさつがありました。
「なぜ、という思い、受け入れることができない思いとともに、時がたつにつれて感謝の気持ちがわいてきました。供養になることは何かと考えてみると、子どもたちをしっかりと社会に送り出すことだと思います。体に気をつけながら、がんばっていきます」
亡き人をうやまい、大切に思うこと、その願いを聞いて生かすことこそ、供養ではないかと思います。何度も何度も亡き方の願いとは何かと考えられたことでしょう。
お寺が本来果たさなければならない仕事は法供養です。法事などの機会に仏の教えに触れていただくことです。もし、そんな時間を曖昧にしてしまえば、生きている人には意味のわからないお経でも亡き人の慰めにはなるのかな、といった誤解をするためにお寺参りをされた、ということになりかねません。
浄土真宗であれば、いったいお浄土とは何かをともに味わってゆくことです。
浄土とは無量光明土のことです。
お互いが照らし合う相照の世界です。それが本来の命のあり方です。私たちはなかなかそれができません。貪りや、怒りや、愚かさからがつきまとうからです。その垣根からでてきなさい、つながりのなかで生き、生かされていることに気付いてくださいと働き続けているのが阿弥陀さんです。亡き方は、決して無になったのではなく、そこから私たちに精一杯生きてくださいと願われる仏になられたのではないでしょうか。仏様の願いとは何かを聞かせてもらい、我が身を振り返り、生きる糧にしていくこと。お寺に参っていただく意味は、そのようなところにあるのではないでしょうか。
きょうの法事はたいへん緊張したので、うまく伝わらなかったかもしれません。けれども、私自身もいかに生きるのか、僧侶とはなんのために存在しているのか、問われる法事でした。
来年は3回忌です。またぜひ施主さんには1年間の思いを話していただければと思います。
本当によくお参りいただきました。ありがたかったです。