坊守です。残暑お見舞い申し上げます。きょうは8月9日、長崎忌でした。
6日と同じく、「平和の鐘」の一環でお寺の鐘をつきました。役員のMさんも参加してくださいました。

いまから75年前の今日、アメリカは広島に続いて、長崎に原爆を投下しました。3000℃から4000℃の熱線と、街ごと吹き飛ばすような爆風、そして放射線による急性症状のために、その年(1945年)の年末までに約7万4000人が死亡しています(広島の犠牲者は同期間で14万人)。
生き延びた被爆者も、後遺症やいつ発症するか分からない原爆症の恐怖を背負ってこられました。
ここ数年、長崎の日に手にする一冊があります。東京に居たころ、ある看護師さんが私に下さった『松尾あつゆき日記〜原爆俳句、彷徨(さまよ)う魂の軌跡』(長崎新聞新書)です。筆者は尾崎放哉と同じく、自由律俳句の作り手です。長崎の原爆で妻と3人の子どもたちを失い、その体験から原爆句をつくりました。

本書は生き残った長女・みち子さんを看病しながら2人で生活した10カ月間をまとめたもの。挟みこまれた原爆句からは、作者の慟哭とともに、当時の匂いや気温、風までがたちのぼってくるようで、ページを開いている自分が1945年8月に連れて行かれたような気にすらなるのです。
【こときれし子をそばに、木も家もなく明けてくる】
【すべなし地に置けば子にむらがる蝿】
…8月10日に帰りついた自宅跡には、横たわる妻の横で死んだ2人の幼子が。この日、さらに長男が生き絶えたが、3人の兄弟の遺体を炎天下に並べておくしかすべがなかったそうです
【まくらもと子を骨にしてあわれちちがはる】
…子どもには7カ月の乳児もいました。臥せっていた奥さんも終戦を待たずして亡くなります。
【なにもかもなくした手に四枚の爆死証明】
【炎天、妻に火をつけて水のむ】
家族を失ったあまりの寂しさに、何度も自死を考えながら、句を作ることで生きた…と、本人は綴っています。
実は、この本をくれた看護師さんは、あつゆきさんのお孫さんにあたります。長女みち子さんが生き延びて彼女が生まれ、いのちを守る仕事に就いたことも偶然ではないように思います。
いま、地球上にある核兵器は1万3410発。かつては7万発超だったので、ずいぶん減りましたが、まだまだ。保有国は多い順に、ロシア、アメリカ、中国、フランス、イギリスと続きます。「そんなの捨てちゃいなよ」と要求する相手は巨大にみえます。でも、原爆が、ひとりひとりの人生から何を奪ったか〜死んだ被爆者も生きている被爆者も〜を考えれば、核兵器の廃絶は、人類があきらめてはいけない課題のひとつであると思います。
私も、色々な機会に、できることをやっていこうと、あらためて考える1日でした。
なんという辛い俳句集でしょうか。戦争は絶対にしてはいけません。終戦の時は私はまだ0歳でしたので、自身の記憶はないのですが、折に触れて母は当時のことを話してくれました。私を産んで三日後には防空壕に飛び込むことになったこと、暑い中、防空頭巾の下の私の頭は汗もだらけだったこと、中でもお食い初めの話では、赤ん坊の私に麦ごはんしか食べさせられなかったと話しながらいつも涙をこぼしました。75歳になった今も、母から聞いた戦争中の話を思い出します。そして二度とこんな辛い時代が巡ってきませんようにと強く願います。
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カボかあさんのお母さんも、戦争では涙が出るような体験をされたんですね。
いまのわたしたちの命は、そうした時代を生き延びた親やそのまた親、もっと前の人たち、という流れでいまあるのですから、堂々と「平和が良い」と言い続けたいと思います。
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