鳥取県東部で、新型コロナウイルス感染症の広がりが見られます。感染された方に対して、「自業自得だ」との批判がインターネット上に見られます。悲しいことです。
もともと、「自業自得」は『正法念処経』(しょうぼうねんじょうぎょう)というお経の中にある言葉です。
「業」とは行為のことです。自分の行為に対しての結果を、自分自身が受けるというのが「自業自得」の意味でしょう。
私自身は、この言葉は決して安易に使ってはならないと考えています。
浄土真宗本願寺派は、「業」についてどのような註釈を行っているのか、改めて確認してみました。
「江戸時代の説教などでは、現在の貴賤、貧富や、心身の障害も、すべてその人の過去世の業の報いであると教えた」
「政治的に作り上げられた封建的な身分差別までも、すべて個人の業報であると説くことによって、社会的身分制度を正当化するような役割を果たしてきた」
「現実の矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであり、それによってもたらされた不幸を、被害者である本人の責任に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらさせてしまうような業論が説かれるならば、それは誤りである」
ーー引用は、『浄土真宗聖典』1560ページより
極めて率直な記述です。また、私自身、踏まえなければならない立場であると再認識しました。
そんなことを思いつつニュースを見ていると、こんな話題が。
香港の民主化運動のリーダーの一人で香港大学准教授の戴耀廷(たい・ようてい)氏が同大学から解雇をされたそうです。それに対し、中国政府の香港出先機関「中国駐香港連絡弁公室」は、「完全に自業自得だ」と談話を発表しています。
真の原因は、たい氏にあるのではなく、「一国二制度」という世界への公約をなきものにしている中国政府にあります。
石原慎太郎氏は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のことを業病とツイッターで記したことをニュースで知りました。このような表現を使えるところに、氏の心の荒廃を見る思いです。
「自業自得」を私たち自身が戒めの言葉として自らに向けて使うならともかく、人を責めたてる言葉として使われる時、注意が必要です。そこに、この言葉のワナがあると思います。