連休初日の「安楽死」のニュース。治る見込みのない難病のなかで、死をのぞみ、それを可能とする医師が薬物を投与し、殺害したという事件です。
安楽死を認めることは、死を私物化する、自己の命をコントロールする「死ぬ権利」を認めるということになるでしょう。事件を受けて、安楽死や尊厳死を認めよという意見がインターネット上では散見されます。
私たちが法事などでお経を読む際、最後に回向句という短い偈文を読みます。
最後は、「往生安楽国」
安楽国とはお浄土のこと。往生とは生まれ往くことです。
お浄土というのは、生きとし生けるものが光り輝く世界です。現実に生きる私たちは、お互いを光り輝く存在として尊重することが極めて難しい中を生きています。そのことを自覚しつつ、お浄土という理想を目指して、私にできる勤めを精一杯、この世で果たしていこう。その果てに、お浄土にお参りさせていただこう。
「往生安楽国」には、そのような意味が込められていると思います。
自分がもう役に立たなくなったから死を選びたい、という気持ちは大変なことであると思います。その方を眼の前にした時、自分はどのようなことができるのだろうかと想像してみても、率直に言って浮かんできません。
ですが、薬を投与して、命を奪うということは、果たして本当に痛みを和らげることなのでしょうか。
苦しみ悩む人のそばに寄り添って話を聞き、生きていける環境を作り、その人が生を全うできる条件を整えていくことの必要性を、この事件は示しているのではないでしょうか。
肉体的な痛みを100%取り除くことも、精神的な苦痛を100%取り除くこともできないのでしょう。それでも、支え、支えられるなかから人は学ぶことがたくさんあるのではないでしょうか。
仏教徒の端くれとして二つほど、思うことがあります。
一つ。「人は人を殺してはならない」。このブッダの教えに対して、「いや、そうは言ってもこういう場合は」と例外規定を設けることをよしとするのか。
二つ。安楽国をめざし、この世が少しでも安楽となるように、私たちは努力すべきではないのか。
人工呼吸器をつけ、介護されながら生きる詩人が、以下のような詩をつくっています。難病患者が、病を得ながらも生きぬける環境や考え方が、いまの日本には少ないと、わたし自身も医療関係者の端くれとして痛感してきました。
「貧しい発想」
管をつけてまで
寝たきりになってまで
そこまでして生きていても
しかたがないだろ?
という貧しい発想を押しつけるのは
やめてくれないか
管をつけると
寝たきりになると
生きているのがすまないような
世の中こそが
重い病に罹っている
#岩崎航 詩集『点滴ポール』より
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「命は選別しないといけない」(大西恒樹)
「障害があって生まれてくることは必ず不幸であり、この社会にとっても不幸しか生まないから存在すべきではない」(植松聖)
重いか軽いか、不幸か不幸でないか、意味があるか無意味なのか、当たり前のように分別してしまうことは、私自身にもあると気づきました。「すべての命に意味がある」と私が言うとき、そこに知らず「無意味なもの」を切り捨てる心はないだろうかと。仏の世界は一切が無分別。その無分別の世界は確かにあるのだと、真如の世界から呼びかけられる声に耳を傾けたいと思います。
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維摩は、衆生が病むから、私も病むのだと語りますよね。その気持ちを私たちは100%持てないかもしれないけれど、それに共感する心を育てたいと思います。法蔵菩薩は讃仏偈の最後で、我が身は毒に沈んでも衆生を救けると誓います。これこそが真実であるとよろこび、敬った親鸞聖人に学んで、少しでもそのように生きていけたらと思います。
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