無量のはなし

今日はある方の納骨でした。お孫さんのTくん(中学2年)も学校を早退して参ってくれました。

彼は先生です。というのも、私が49歳にして初めて知ったことを、小学生のころから知っていて、暗記していたからです。

一から十、百と単位を数えていくと、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量と続きます。お経によく出てくることばです。それが数の単位であったということを私が知ったのは昨年のことでした。

7月発行の西法寺通信で、無量について書きたいと思っていたので、Tくんに書いてもらったのです。

ただし漢字で書くと、単位というのは難しい。音では完璧に暗記しているそうですが、事前に紙に書いて予習をして今日に臨んでくれたのでした。

無量ってどんなイメージなのでしょうか? 無限とは似ているようで違うように思います。無限に広がる宇宙というと、私たちの存在とは関わりなくということでしょう。しかし、無量に例えば光がくっついて無量光となると、私たちの苦しみ悩みがある限り仏は照らし続けるという意味となります。寿命がつくと無量寿命となります。私たちと関係なく仏さんは無限のいのちなのだ、ではないでしょう。生きとし生けるものの悩み、苦しみがある限り、それによりそう仏さんの寿命には限りがないっていうことだと思います。だから無限光とはいわず、無量光、無量寿というのでは、などと考えているのですが、どうなんでしょう。

感無限ではなく感無量。無量の可能性ではなく無限の可能性。無量大でなく無限大。いやー、難しい‥。

投稿者: 西法寺

西法寺のHPを管理している釈大朗です。よろしくお願いします。

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