東大寺が宗派の枠をこえ、正午に祈りを捧げようと呼びかけ話題になっています。

4月9日は大仏開眼の日でした。疫病やわざわいを仏の力によって鎮めることを目的として東大寺の大仏は造られました。これほど祈りがふさわしいお寺はないと思います。密閉されたような社会の雰囲気を吹き飛ばせたらというよびかけには共感します。
親鸞聖人は40代前半の頃に、『浄土三部経』を千回読誦しようと思い立たれ、実際に読み始め、しかし数日でやめられています。世の中に飢餓や疫病、自然災害が広がっていたから、どうにかして救いたいと考えられたのでしょう。
読むのをやめたことを従来、真宗では、仏の救いにある(他力)のだから、自力でなんとかするという人の執心を反省されたのだと解釈します。しかし、本願寺総合研究所の丘山新さんは、「現代の私たちが読み取るべきポイントは、親鸞の、共に生きる人々への変わらぬ思いではないか」(『本願寺白熱教室』167ページ)と指摘されます。私はこの指摘に、深く共感しています。
自分の祈りには、病気を治す力はまったくありますん。けれども苦しんでいる方を思うことはできます。患者さんをなんとか助けたいと力を尽くして献身されている方、日常生活を守るために働いてくださっている方に感謝することもできます。正午にできるときは本堂で、仏壇の前で、できないときはその場で手をあわせなんまんだぶととなえたいと思います。
そして、それ以外にも自分にできることを見つけて実践しなければと思います。
親鸞聖人が手紙に記した「祈り」については4月9日にブログでとりあげました。