お寺に帰ってきてから約2年、初めて2日続けての葬儀を勤めました。
火葬場でのお別れの様子をじっと見つめていました。
荼毘にふされるお母さんの名前を呼ぶ息子さん。
亡き夫を思い、「お父さん、お父さん」と叫ばれた奥さん。
何度立ち会っても、その度に胸に詰まるものがあります。
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかえりては
釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし
親鸞聖人の詩(和讃)を還骨法要で読みます。
阿弥陀仏の浄土に往生した人は、さまざまな濁りと悪に満ちた世に還り来て、釈尊と同じようにどこまでもすべてのものを救うのである(本願寺出版社『三帖和讃』16ページ)
悲しみが癒えない還骨法要で読むにはちょっと早いのではないかと思うこともありました。しかし、今はこの法要になくてはならない和讃であると感じるようになりました。別れは悲しい、けれど、仏様として、私たちのために働いてくださる。親鸞聖人は、「いのち」をそのように受け取っておられます。「死んだら終わり」という今日の常識的な価値観とはかなり違います。
死んだら終わりという考え方は、いま楽しければということであり、死の恐怖はものすごいのではないかなと思います。以前の私はこれに近い感覚であったと思います。しかし、この和讃を繰り返し読むなかで、「あなたは、この社会では助け切れなかったいのちさえ、救っていけるような仏さんにならせていただくいのちなんですよ。そのような気持ちで、このありがたいいのちを生きているのですか」と親鸞聖人に問われているような気がするようになりました。字面だけ追っているような読み方ではなく、本当に、いのちって何なのか、よくよく考えなければならないと思うのです。
今日の葬儀では、長年連れ添った御主人を送った奥さんが、大きな声で『正信偈』をあげられました。しょっちゅう読んでおられるということは声を聞いていれば分かります。
念仏のちから、信心ってすごいなあと横で声を聞きながら感動していました。ご本人が誰よりいちばん悲しいであろうはずです。しかし、誰より亡き夫に、そして仏さんに感謝されているのが奥さんなのです。僧侶はこのような方たちに育てていただいているのです。その姿を忘れないために、ここに記しました。悲しみとともに、感謝、感謝のご葬儀でした。
合掌