先日、テレビを見ていたら、磁石の謎、なぜくっつくのか?を解説していました。
ふだんはバラバラの原子が磁石を向けると磁石の方向を向くのでくっつくということでした。
そういえば親鸞聖人も磁石のたとえを使って教えを説かれていたなあ、どこだったかな?と探していたらありました。
「なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに」と『教行信証』で記されています。
仏様の「必ず救うぞ」のはたらきが私たちを仏様の方向に吸いつけていく、それは磁石のように、という意味でしょう。
仏など関係ないと思って生きている私が、何かをきっかけにして、仏法を聞くように変わっていく不思議さを磁石になってしまった鉄にたとえたのでしょう。
磁石化した鉄は、離れるともとに戻ってしまいますが、仏様はお構いなしに決して捨てないとはたらきつづけます。そうなると、私は磁石でありつづける状態に置かれます。つまり、少しずつ仏様の方に向かって動いていく、少しずつマシな人間になってゆく、そんなふうに教えと私との関係を親鸞聖人は味わっておられます。
ヒトが猫に吸いつけられるのはナゼ。網代にて
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ニャンということでしょう
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